日本に来た人は、たいてい日本のことが好きになる。温かい人たち。おいしい食べ物。美しい自然。何だか、ほっとして安心する。
ところが、なかなか真意が伝わらないのが日本人。ついつい引っ込み思案になって、自分たちの立場をきちんと伝えない。そのことが、グローバル化する世界の中で、日本が発展するうえでの足かせになってしまっている。
日本流のコミュニケーションは、近い距離での、コンテクスト(文脈)を共有した場では大いに力を発揮する。温泉旅館でのきめ細かなサービスや、料理屋での「おまかせ」など、訪れた人を感激させる日本の姿がそこにある。
ところが、そのような日本のよさが、グローバル化した世界ではなかなか伝わらない。遠い距離が苦手。インターネットによって、世界の隅々まで情報が共有される時代。自分の発する内容が、ひょっとしたらアフリカの片田舎まで届くかもしれないという「想像力」が必要となる。
遠くに行けば行くほど、コンテクストは共有されない。たとえば、「おまかせ」の心地よさは、このくらいの年格好の人ならば、こんなものを好むだろう、という推測が成り立ってこそ可能。歴史も食文化も異なる地域の人に、いきなり日本の「おまかせ」のサービスを提供しても、戸惑うだけである。
今、グローバル化の波が押し寄せる中、日本人は重大な岐路に立たされている。親密で、コンテクストを共有できる「村社会」は安心できる。そのような心地よさに惹かれてやってくる外国人もいる。一方で、村は「よそ者」には冷たく、その「論理」はしばしば外から誤解される。
日本人が、コンテクストを共有した「あうん」の呼吸を得意とするのは、すでに実証されている。人間は「道具箱」の中の「道具」が多いほどに強靱な力を発揮できる。そろそろ、「遠くへ」「コンテクストの外へ」と向かうべきときが来ているのではないか。
灘高校からハーバード大学に進み、現在は同大学大学院で理論物理をやっている北川拓也さんが、面白いことを言っていた。アメリカでは、異なる立場、考えの人に対していかに自分の意見を伝えるか、説得するかという技術を徹底的に鍛えられる。出身国も文化もさまざまな学生が学ぶハーバード大学ならではの「卓越」のあり方だろう。
その結果、何が起こるか。説得のかたちを工夫しているうちに、研究の内容という「実質」が鍛えられるのだという。どうやったらインパクトがあるか。多くの研究者に影響を与えられるか。そのことを必死になって考えているうちに、研究の「真水」の部分の質が向上する。
従来、日本人は、コミュニケーションが苦手でも、「実質」さえしっかりしていれば大丈夫だと考えてきたところがあるのではないか。しかし、本当にそうか。グローバル化の世界で、「遠くへ」「コンテクストの外へ」と伝えること、伝わることの工夫なしで、私たちは日本の「実質」を守っていけるのだろうか。
「アウェー」の世界へのリーチを考えないと、大切にしていた日本の美質さえもが損なわれるかもしれない。実際、日本食の世界的スタンダードがアメリカによって書き換えられるかもしれないと危惧している専門家もいる。
親密な心地よさを守るためにも、世界の人々を説得する技術を磨こう。日本の「実質」を守るためにも、「遠くへ」伝えていかなければならない。それが、グローバル化の時代における「エチカ」である。