人間とはどのような存在か。ドイツの哲学者ハイデッガーはただそこに存在するだけでなく、道具を使って生きて日常の行為をしているものと説いた。また、「良心の呼び声」に従い死を意識したときに本来性を取り戻すという。作家の白取春彦さんが書いた『超要約 哲学書100冊から世界が見える!』(三笠書房)より、ハイデッガーの哲学を紹介しよう――。

※本稿は、白取春彦『超要約 哲学書100冊から世界が見える!』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

ベッドに横になりながらスマホを操作している人
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「人間とはいったい何なのか」ドイツの哲学界に衝撃を与えた1冊

ハイデッガー『存在と時間』(原題:Sein und Zeit 1927)
「良心は、呼びかけられているものに何ごとを呼び伝えるのであろうか。厳密にいえば――何ごとをも呼び伝えはしない」
「良心は、ひたすら不断に沈黙という様態において語る」
『存在と時間』Ⅰ 原佑・渡邊二郎訳 中央公論社)

これは、ハイデッガーの代表作『存在と時間』(原題:Sein und Zeit 1927)の一節です。

ハイデッガーの問題意識は、古代ギリシア語でいうところの「存在」(ousiaウーシア)とは何か、というものです。存在とは何かを知るために、まず人間という存在とはどういうものかと分析しているのが、ハイデッガーが38歳のときに刊行した『存在と時間』です。

人間とはいったいどういう存在かというこの問いについては、古代ギリシアの時代から人間を外から見て気づいたことを人間の特徴とすることが続いてきました。

それとは逆にハイデッガーは人間を内側から見て、人間というものがどのような存在であるかを引き出そうとしました。そうすれば存在が何であるか、わかってくるだろうと考えたのです。

そこでまず人間を、ハイデッガーは「現存在」(Daseinダーザイン)と呼びました。これは、「そこに存在しているもの」という意味です。

(ただし、これはラテン語で「事実存在」を意味するエクシステンティアをドイツ語に翻訳したもので、カントやヘーゲルも使っていました。しかし、頻繁に使ったのはハイデッガーです。ドイツ語としても一般的とはいえないこういった造語はこの本の中でも多用されています。

ハイデッガーによる造語の特徴は、日常のドイツ語の意味を勝手に拡大して使っていることです。そのため、読者にとっては難解になるだけではなく、意味が深いようにも感じられてしまいます。

その独特の異様さがわかるように、また、ドイツ語を辞書で引ける人のために、この概説では造語のほんの一部のドイツ語表現も記しておくことにします)