その後、神戸にある4年制の服飾専門学校を卒業。大阪市にある大手縫製工場に就職した。意気揚々と入社したものの、ふたを開けてみると、縫製職人の道は自分が想像していた以上に険しく、厳しいものだった。

勤務時間中はノルマに追われた。先輩に手本を見せてもらいながら進めるが、何度やってもうまくできず、縫っては解いての繰り返し。チームの流れを止めている焦りから、始業より1時間半ほど早く工場に向かい、遅れを取り戻そうとした。

田村さんが開発した「minamo」。
写真提供=ouca
田村が開発した靴下「minamo」。

工場から歩いて30分の場所にある寮はトイレ、風呂、キッチンが共用で、部屋の壁が薄くて隣に住む同僚がお菓子を食べている音が聞こえた。寮費と食費、そして週3回の研修費などが引かれ、給料は手取り6万円。土日は寮で食事が支給されないため、自室の小さな冷蔵庫に値引きされた食材を詰め、狭いキッチンで作って食べた。

仕事から何度も逃げたくなった

工場はチームごとに行うシステムで、なかでも腕のいい先輩たちの班に配属された。そのため難しい服を任されることが多く、うまくできないことが多かった。班長からは「やり方がわからんのなら帰って!」と厳しく指導されたこともあった。

気が付けば1つ上の先輩が全員辞めていた。田村も何度も逃げたくなったが、夢は諦められない。「負けたくない」という気持ちで工場に通った。

勤務時間外にもミシンの練習を重ね、休日には服飾の講習会に通った。2016年には婦人子供服製造技能士1級の国家資格を取得。入社4年目で班長に抜擢される。

無理がたたってうつ病に

工事に勤めて6年目の秋、異変が起こる。

目が覚めると身体がだるく、布団から起き上がれない。工場に休みたいと電話を入れると社長から病院に行くよう勧められ、タクシーで急ぎ向かった。

「どんなに仕事がつらくても、技術を磨くことはやめなかった」という
筆者撮影
「どんなに仕事がつらくても、技術を磨くことはやめなかった」という

フラフラになりながら工場が提携するクリニックに行くと、終始涙が止まらない。医者に「あなた、内科じゃないわ」と言われ、心療内科に連れていかれた。パニック症と躁うつ病だった。睡眠薬やめまい止めなどを処方され、あまりの薬の多さに「今の私、悪いんだ」と、そこで初めて自覚した。