「寺と神社の違いは?」と尋ねても言葉に詰まる
筆者が定期的に教壇に立っている大学の授業で学生に「寺と神社の違いは?」と尋ねても、言葉に詰まる者が多数派だ。そして、「自分は無神論者だ」と言って胸を張る。
旧統一教会問題のような宗教トラブルが生じると「宗教は怪しいもの」としてひとくくりにされ、本質的な議論が進まないのも常だ。先の戦争では国家と宗教が一体化。多くの犠牲を生んだ反省に立って「政教分離」が実現したのはよいが、「思考停止」になってしまってはいないか。宗教にたいする無知、無関心がこんにちの旧統一教会問題を生み出したといっても過言ではない。
「宗教とは何か」からはじまる基礎知識や日本人の宗教性、死生観などを学ぶ場がないのが問題だ。あえていえば特に公教育において、宗教の基礎学習が欠落している。
公立学校の中で宗教の授業が取り入れられないのは、戦後占領政策の過程で米国の教育モデルを取り入れたからとされている。米国の公教育では、宗教が排除されている。その上で、憲法20条3項で「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。
憲法20条を受け、戦後の教育基本法制定時の規定の概要には「宗教教育(第9条)」が盛り込まれた。その第2項には、「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」と明記されている。この規定からは、公立学校における宗教教育の限界がみえる。
だが、国が一切、宗教と関わりをもたないことなどは不可能だ。そこで政教分離を争った過去の裁判では「目的効果基準」が、違憲かどうかの判断材料となっている。
つまり、「①行為の目的が宗教的意義を持ち②行為の効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」になっていなければ、政教分離違反といえないのだ。したがって、公立学校が宗教の歴史や概論のような授業を実施することは何ら、問題がないはずである。