「比叡山の焼き討ち」は本当だったのか

さらにつけ加えるならば、光秀は築城の名手でもあり、1571(元亀2)年に築城の近江の坂本城は、信長の安土城に先駆けて天主(天守)を備えていたという。

これらは光秀が信長同様の革新性を備えていたことの証しであり、2人は似たもの同士であったということができるのである。

話を戻そう。織田軍の侵攻をはね除けた朝倉・浅井連合軍は1570年の姉川の戦いで敗北し、その後は比叡山延暦寺と組んで信長に対抗した。

信長は比叡山に対し、朝倉・浅井の兵を匿うことを辞めるよう要求したが受け入れられず、悪名高き「比叡山の焼き討ち」を断行する。

通説では、光秀はこの焼き討ちに反対したとされている。その根拠は『天台座主記』の「光秀縷々諫を上りて云う」(光秀は信長を諫めていた)という記述だが、この書物は後世の編纂であり、一次史料はまったく異なる光秀の言動を伝えている。

当時の光秀は比叡山周辺の国衆への調略を行なっており、比叡山の北にある雄琴城の城主・和田秀純に宛てた書状には「仰木の事は是非ともなてきりに仕るべく候。やがて本意たるべく候」(仰木は必ず撫で斬りにしなければならない。いずれそうなるであろう)という記述がある。

比叡山
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仰木は延暦寺の支援者の多い土地であり、光秀は焼き討ちに反対するどころか、むしろ積極的に荷担していたのである。

この焼き討ちに動員された織田軍兵士は、一説に12万。対する延暦寺の戦力は4000とされている。

信長公記』は「根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い(中略)僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり」と、文字通りの大虐殺が行なわれたことを伝えている。

「惟任日向守」に込められた、信長の期待

光秀は焼き討ちの功で信長から近江の滋賀郡を拝領し、延暦寺の寺領を管理することとなった。管理とはいっても、やっていたことは横領である。

加えて光秀は、京都の奉行としての振る舞いにも横暴さが見えるようになり、京都の治安維持の責任者である将軍・義昭と間で軋轢を生んだ。義昭は1573(元亀4)年、信長により将軍の座から追われ、光秀は晴れて織田家専属の家臣となるのである。

従来の光秀の家臣団は、明智秀満ら一族衆、斎藤利三ら譜代衆、和田秀純ら西近江衆を中心に構成されていたが、義昭の京都追放を機に幕臣や山城(現在の京都府南部)の国衆も配下に加わった。

増強された軍事力を背景に、光秀は1575(天正3)年より丹波(現在の京都府中部、兵庫県北東部)の平定に着手する。義昭と信長が昵懇だったころは丹波の国衆たちも信長に従っていたが、両者の決裂にともなって丹波はふたたび乱れていたのである。

信長は出兵を控えた光秀に「惟任」の姓と「日向守」の官職を与え、以降、光秀は「惟任日向守光秀」を名乗るようになる。

丹波の支配者として箔を付けるためとも考えられるが、惟任氏は豊後(現在の大分県)の有力氏族・大神氏の末裔であり、信長はその後の九州進出も見据えて、光秀に九州ゆかりの姓と官職を名乗らせた可能性がある。

いずれにせよ、光秀が信長から多大な期待を寄せられていたことは間違いない。

光秀の丹波攻めは有力豪族の荻野氏や赤井氏の抵抗、あるいは波多野氏の裏切りなどで大いに難航し、一度は中断される。しかし光秀はその後も粘り強く戦い、1580(天正8)年に丹波を平定。その領有を信長から認められた。