「嘘泣きをしてでも、信長の同情を引いた」
光秀の家臣団には丹波衆も加わり、さらに丹後(現在の京都府北部)の細川藤孝・忠興親子、大和(現在の奈良県)の筒井順慶、近江の織田信澄らを与力とした。
光秀は畿内に睨みを利かせる存在となり、後世の研究者は当時の光秀を「近畿管領」と表現している。
信長は佐久間信盛を追放する際の折檻状でも光秀を「丹波の国での働きは天下の面目を施した」と褒め、当時の光秀は織田家の事実上のナンバー2であったといえるだろう。
では、光秀自身は信長をどう見ていたのか。光秀は家臣団をまとめるために『家中軍法』と『家中法度』を制定しているが、『家中軍法』では落ちぶれた身を拾ってもらったことへの感謝や、今後も信長に尽くす旨が記されている。
また『家中法度』では「信長様の宿老や側近と道で出会ったときは、片膝を突いて挨拶するように」と、かなりへりくだった対応を家臣に求めており、媚びへつらっているようにも感じられる。
フロイスの『日本史』にも同じような指摘がある。
光秀は「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」ており、「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃してみずからがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」という。
加えてフロイスは「(光秀は)人を欺くために72の方法を体得していた」「裏切りや密会を好む」とも書き記しており、かなり悪辣な人物だったことがうかがえる。
そんな光秀に、同僚武将たちは心から気を許してはいなかった。のちに起こる本能寺の変で信長を殺した光秀は、あてにしていた細川親子や筒井順慶の同心を得ることができず、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、あえない最期を遂げた。才覚は秀でていても、人望はなかったのであろう。