使い走りに過ぎない「賤しき歩卒」から立身出世
ただし、光秀は六角氏の家臣だったわけではない。『群書類従』に収められている『永禄六年諸役人附』は足利将軍家家臣の名簿ともいうべき史料で、そこには「明智」という足軽の名が記されている。
つまり光秀は、室町幕府十三代将軍の義輝が暗殺される前後には足利家に仕えていたことになる。ルイス・フロイスの『日本史』には光秀を「賤しき歩卒」とする記述があり、低い身分から立身出世をスタートさせたことは事実であろう。
義輝の暗殺後、弟の義昭はまず若狭(現在の福井県西部)の守護・武田義統を頼り、その後は越前の朝倉義景を頼った。
ところが義景は上洛に消極的であり、義昭は信長に協力を要請する。このときの交渉役を務めたのが、当時、足利将軍の家臣だった細川藤孝で、光秀はその部下であった。
信長から藤孝に送られた1568(永禄11)年の書状には、「詳細は明智に申し含めました。義昭殿によろしくお伝えください」と記されており、光秀は両者の伝達役を務めていたとみられる。
いわば使い走りに過ぎない光秀が14年後に信長を討つとは、当時の誰が想像できたであろうか。
光秀の配下に組み込まれた500人の鉄砲隊
間もなく信長は上洛し、義昭を十五代将軍の座に就けることに成功する。当時の光秀は足利と織田、両属の家臣という立場であった。
その職務は行政や軍務、外交など多岐にわたり、1569(永禄12)年には村井貞勝や丹羽長秀とともに京都の奉行職に任じられ、さまざまな文書の発給を行なっている。
また、1570(元亀元)年の朝倉攻めでは、義弟・浅井長政の裏切りにより金ヶ崎に孤立した信長を救う働きを見せている。いわゆる「金ヶ崎の退き口」だ。
殿を務めた木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の活躍が広く知られているが、光秀と池田勝正も秀吉とともに殿を務めており、『当代記』によれば、光秀の配下には500人ほどの鉄砲隊が組み込まれていたという。
寛永年間成立の『当代記』は江戸時代中期に成立した『明智軍記』よりも信憑性が高く、この記述が事実であれば、光秀の鉄砲隊が活躍したことは想像に難くない。
話は脱線するが、光秀は三好軍が義昭の仮の御所を襲撃した本圀寺の変で「大筒の妙術」を駆使したという。ここでいう大筒とは、通常よりも大きなサイズの鉄砲のことだ。
信長が本格的に鉄砲隊を導入するのは1575(天正3)年の長篠の戦いであり、光秀は鉄砲の戦場での活用に関する何かしらの示唆を信長に与えていた可能性がある。