坐禅というのは何も考えずひたすら坐ること
坐禅に入る前に住職の芦辺謙一さんと交わした言葉を思いだす。
「警策を打つ力というのは、修行僧と違って私たちのような一般人の参禅者には、もちろん加減されるんでしょうね」
「いいえ、まったく同じです」
「え、それはないでしょう」
「いい音がするほど痛みは少ないんです」
「とはいっても」
「警策を入れてもらうと爽快という方もいます。お釈迦様にかわって私どもが入れさせていただく策励(さくれい)、すなわちしっかり坐ってくださいという意味で、警策に私情はいっさいありません」
私のような素人には、私情がないというところが逆に冷徹きわまりない気がして、ますます気後れした。
「坐禅というのは頭で考えるのではなく、体で感じとるということ、身をもって行ずるということ、黙照禅(もくしょうぜん)といって何も考えずひたすら坐ることなのです……」
また、奥のほうで警策の音が響いた。みずから打たれる人が多いのだろうか? 何も考えないといっても、警策のことだけは気になってしかたがない。