坐禅というのは何も考えずひたすら坐ること

坐禅に入る前に住職の芦辺謙一さんと交わした言葉を思いだす。

作家 藤原智美
1955年、福岡県福岡市生まれ。県立福岡高校、明治大学政治経済学部卒業。92年『運転士』(講談社) で芥川賞を受賞。近著に『暴走老人!』(文藝春秋社)、『検索バカ』(朝日新書)などがある。

「警策を打つ力というのは、修行僧と違って私たちのような一般人の参禅者には、もちろん加減されるんでしょうね」

「いいえ、まったく同じです」

「え、それはないでしょう」

「いい音がするほど痛みは少ないんです」

「とはいっても」

「警策を入れてもらうと爽快という方もいます。お釈迦様にかわって私どもが入れさせていただく策励(さくれい)、すなわちしっかり坐ってくださいという意味で、警策に私情はいっさいありません」

私のような素人には、私情がないというところが逆に冷徹きわまりない気がして、ますます気後れした。

「坐禅というのは頭で考えるのではなく、体で感じとるということ、身をもって行ずるということ、黙照禅(もくしょうぜん)といって何も考えずひたすら坐ることなのです……」

また、奥のほうで警策の音が響いた。みずから打たれる人が多いのだろうか? 何も考えないといっても、警策のことだけは気になってしかたがない。