冬休み恒例の学校の宿題といえば「書き初め」だ。何枚も練習した上で、学校に提出したものが校内で掲示され、優秀作は表彰されることが多い。現役小学校教員の松尾英明さんは「書き初めはそれぞれが新年の抱負などを書けばいいのに、学校が課題の文字を決めるのはおかしい。また、仕上げた作品を全員分並べて掲示し、評価することに強い違和感を覚える」という――。
小学生の書道
写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです

正月の「書き初め」宿題はほんとうに必要なのか

小学校では冬休みの宿題の定番として「書き初め練習」がある。たいていの場合、「必要量」が指定されて、20~30枚以上、多いと50~100枚という場合もある。学校の狙いは、「書き初めで字を上手に書けるようになって、いい一年のスタートにしてほしい」なのだろう。

だが、あくまで書き初めの「練習」であるにもかかわらず、一番よくできたものを「清書」として選んで担任教員に提出し、それが「校内掲示用」「コンクール提出用」などに使われる。これがどうも筆者には納得がいかない。そんな考えを共有する現役教員も増えている。

そもそも冬「休み」に大量の宿題を出すということ自体、家庭教育に踏み込んで子供の時間を管理し、学校教育をし続けるのもいかがなものか。学校側の熱心な“親切心”によるものだが、かえって子供の自主性を損なう可能性もある。

ここには現代の教育における本質的問題が隠れているように感じる。「納得いかない無意味とも思える苦痛にも耐えよ」「やれと言われたことをやれ。その意味を考えるな」「みんながやることには従うしかない」「比較されることは仕方ない」……。そんな教え、もしくは暗黙の圧力が見え隠れしている。

「書き初め」の意味を改めて辞書で引いてみると「新年に初めて文字を書くこと」とある。

正月二日にするのが習わしであるようだが、本来はめでたい詩歌などを書く。つまり、練習し続けた字を書いてコンクールに出すようなものではなく、一律に与えられた課題でもない。上手でも下手でも、心をこめて自分で選んだ新年の抱負などを書き、決意を新たにすればいいのである。

ところが、「練習」として正月に書いた時点で、実は既に「書き初め」としての役割を終えている。本来の意味からすると、本末転倒である。

また書き初めを学校教育として行うのならば、「清書」は「校内書き初め大会」などの学校教育の場で書いたもののみを認めるべきである。家で書いたものを「清書」として出すのは、コンテスト実施の平等性を欠いている。

もっと言えば、書字に筆と墨を用いない現代において、冬休みに家庭でわざわざ書き初め練習をするという宿題内容自体を問う必要がある。年賀状すら、パソコンでプリントアウトが主流の時代だ。墨を用意して筆を用いて字を書く、というのは、多くの家庭においてかなりの「特殊状況」である。