上手な子は毎年表彰され自己肯定感が上がるが……
過去にこれを学校教育に取り入れてきたことには、意味がある。かつては全てにおいて筆を用いて字を書いていたのだし、妥当性も大いにある。しかし、現代においてこれを「全家庭」「一律」に課す必要があるかと問われれば、明確に「NO」である。
とはいえ、現代における習字の習い事や、書道の価値を否定するものではない。これらは非常に価値がある。書道は伝統的な言語文化であり、芸術の一分野である。
ただし、学校で通常行っている「書写」の指導の目的は、これとはかなり異なる。ずばり「書き写す」の文字通り「字形を整えて書くこと」に尽きる。学習指導要領にも「各教科等の学習活動や日常生活に生かすことのできる書写の能力を育成することが重要」とある。
つまり、芸術としての「書道」とは明確に異なる位置づけである。
また、校内書き初め大会で書いた「書き初め」に限らず、普段の習字作品でもそうだが、一律の文字を全員分並べて掲示することには、強い違和感を覚える。ここについては自著『不親切教師のススメ』(さくら社)にも詳しく書いた。
当然だが、日常から習字教室に真剣に通っている子供の字は、際立って立派である。文句のつけようもないぐらい、輝いている。しっかり止め、払い……堂々たるものである。たとえ習字教室に通っていなくても、本当に情熱を注いで練習してきた子の字も同様に躍動し、輝いている。言うなれば、切磋琢磨してきた者同士の競演である。
それら努力の結果を掲示することには、教育的価値があると言えるだろう。
しかしである。教室に通わず、美しい字を書くことに特にこだわりのない子はどうだろう。
そんな興味もないし、比較しやすい同じ字を並べて掲示されるなんて、苦痛以外の何ものでもない。そんな児童も多いに違いない。ましてや両隣が立派な字である場合、なおさらである。
そしていつも褒められるのは、毎年同じ子供の作品である。コンクールで「金賞」や「特別賞」をもらうのも同様。得意な子供は何年に進級しても、やはり得意である。筆者のように習字が苦手な子供たちが、いつもより多少努力したぐらいでは到底及ばない。そして、多くの子供にとって、習字に対して高いモチベーションは、ない。
習字に限らず、好きこそものの上手なれで、それぞれが得意なことだからこそがんばれるのである。好きでもないことは「最低限やる」「とりあえず課題を消化する」という程度しか努力できない。
苦手なことをひたすらやらされるというのは、苦痛でしかない。それはたとえるなら、運動が苦手でやりたくないのに親の趣味で行かされるダンスとか、別に好きでもないのに親の方針で通わせ続けられる音楽系とかの習い事、あるいは無理矢理塾に行かされ続ける子供の状態である。それによって得られる結果は「多少ましになった……かな?」程度だろう。