頼朝のみが名指しされたのは、木曾義仲や武田信義と異なり、頼朝が伊豆に流される前は京都で生活しており、官職を得て朝廷で活動していたからだろう。この知名度の差は後々まで活きる。
頼朝討伐を最優先した平宗盛
前述の富士川合戦に勝利したことで、武田信義の名は一躍高まった。このため11月7日の追討宣旨には頼朝だけでなく、「甲斐国住人源信義」の名も見える(『吉記』治承4年11月8日条)。けれども、同宣旨においても、頼朝の挙兵に信義が呼応したという理解が示されており、頼朝が反乱勢力の中心であるという朝廷・清盛の認識に変化はない。
清盛が死去すると、清盛の病気によって中止になった東国遠征計画を宗盛は復活させようとする。拙著『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021年)でも指摘したように、この際に宗盛が討伐対象として重視したのも頼朝であった(『玉葉』治承5年閏2月7日条)。清盛病死の直後というタイミングを考慮すると、頼朝討伐を最優先するという宗盛の方針は、清盛の遺命によると考えるのが自然だろう。
同年3月、平家軍は美濃・尾張国境に出陣し、墨俣川合戦で源行家(頼朝の叔父)を破った。だが養和の大飢饉による食糧不足が祟って、それ以上の進軍は断念し、頼朝討伐・東国奪回は先送りとなった。
戦功をあげたのは、頼朝以外の源氏だったが…
寿永2年(1183)7月25日、木曾義仲の攻勢に窮した平家は京都から撤退した(平家都落ち)。義仲は源行家らと共に同月28日に入京し、同30日には朝廷で平家追討の論功行賞が議論された。後白河法皇は「今度の義兵、造意、頼朝にあり」と述べている(『玉葉』寿永2年7月30日条)。やはり頼朝が平家への反乱を主導したという認識が示されている。
この理解に基づき、朝廷では勲一等は頼朝、二等は義仲、三等は行家という決定を下した(ただし後にこの決定は義仲によって覆された)。直接の戦功をあげていない頼朝が最も高い評価を受けたのである。
以上のように、頼朝は京都では一貫して反平家勢力の中心、諸国源氏の頂点とみなされていた。木曾義仲や武田信義は独自の判断で挙兵しており、頼朝の傘下にも入っていないので、この認識は誤りである。だが、少なくとも朝廷・平家の目にはそう映っていたのである。
東国の反乱を鎮圧するには、反乱勢力の中心である頼朝の打倒が不可欠だ、と清盛は考えていたに違いない。したがって、「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と清盛が述べたとしても、さほど不可解ではないのである。