けれども九条兼実くじょうかねざねの日記『玉葉ぎょくよう』養和元年(1181)8月1日条には、「我が子孫、一人生き残る者といえども、むくろを頼朝の前に曝すべし(平家一門は最後の一兵となるまで頼朝と戦い続けよ)」と清盛が遺言したという記述が見える。このため、助命の恩をあだで返した頼朝に対して清盛が深い恨みを残して亡くなったことは歴史的事実と考えられてきた。

2019年に『源頼朝』(中公新書)を著した中世史研究者の元木泰雄氏も、「(清盛は)二十年余り前、池禅尼の嘆願で頼朝を助命した自身の判断の甘さを悔やんだことであろう。頼朝に対する遺恨と憤怒は、想像を絶するものがあった」と説いている。

「大日本六十余将」より『安藝 平相国清盛』、大判錦絵(歌川 芳虎・作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
「大日本六十余将」より『安藝 平相国清盛』、大判錦絵(歌川 芳虎・作/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

遺言は創作されたエピソード?

ところが最近、中世史研究者の川合康氏がこの通説を批判した。

『玉葉』に見える清盛の遺言は、清盛嫡男の宗盛が、頼朝との和平を打診する後白河法皇に対し、これを拒絶する主張の中に登場する。つまり「父清盛の遺言があるので、頼朝と和睦することはできません」という理屈である。

このため川合氏は「実際に清盛が臨終の際にこのように述べたのかどうかはわからない」と述べ、宗盛が和平拒否を正当化するために遺言を改変した可能性を示唆する。

また川合氏は、富士川合戦の勝者は実は頼朝ではなく武田信義ら甲斐源氏であったことを指摘し、東国に複数の反乱諸勢力が存在したことに注意を喚起する。そして「そのような状況にあって、清盛が臨終に際して、頼朝との対決だけを一門に言いのこすことなどありうるであろうか。『平家物語』における清盛の遺言は、やはり頼朝が内乱の最終的勝利者となったことを前提に、創作されたものとして理解すべきであると思われる」と推測している。

さらに川合氏は、鎌倉幕府の準公式歴史書『吾妻鏡あづまかがみ』治承5年閏2月4日条に清盛が子孫に東国奪回の遺命を残したという記述があることに注目し、東国奪還命令が「のちに頼朝との対決を命じるいかにも清盛らしい遺言に脚色されていった」と結論づけている(『源頼朝』ミネルヴァ書房、2021年)。

京都から見た源氏勢力

しかし私は、川合氏の新説に疑問を持つ。実態はともあれ、京都の貴族社会では、頼朝が反乱勢力の中心と認識されていたからである。

治承4年8月から9月にかけて、源頼朝、木曾義仲、武田信義ら東国の源氏が次々と挙兵した(『玉葉』『山槐記さんかいき』『吾妻鏡』)。だが追討宣旨せんじで真っ先に討伐対象として名指しされたのは頼朝であった。

当時清盛に牛耳られていた朝廷は、9月5日の宣旨で「伊豆国流人源頼朝」の反乱を非難し、平維盛・平忠度ただのり・平知度とものりに頼朝の討伐を命じたのである(『玉葉』治承4年9月11日条)。