なぜ源頼朝と義経は対立するようになったのか
元暦2年(1185)4月25日、壇ノ浦合戦で平家を滅ぼした源義経は、京都に凱旋した。義経は得意の絶頂にあったことだろう。だが、この日を境に彼の運命は暗転する。
5月7日、義経は平家の総帥である平宗盛らの捕虜を従えて、鎌倉に向けて出発した(『玉葉』)。だが5月15日、義経が使者を派遣して翌日に鎌倉入りすると頼朝に伝えたところ、頼朝は義経に対して鎌倉入りを禁じて待機を命じた。頼朝は、自身の許可をとらず勝手な行動を繰り返す義経に深い憤りを覚えていたのである(『吾妻鏡』)。
足止めを食った義経は、梶原景時らの讒言によって頼朝が誤解していると考え、頼朝側近の大江広元に弁明書を送り、頼朝への取りなしを求めた。これがいわゆる「腰越状」である。文面に若干の異同があるが、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本・『義経記』などに同状は収録されている。
戦争の天才、政治センスは皆無…義経像が生まれた原因
腰越状の真偽に関しては、古くから議論がある。真書説に立った場合、平家追討の大功を誇り、反省の念を示さない文書を送るのは火に油を注ぐ行為であり、いかにも無神経である。ここから、戦争の天才ではあるが、政治的センスに欠ける義経像が生み出されていった。
ただ近年、真書説は劣勢で、史実性を積極的に評価する研究者は少ない。
とはいえ、全否定されているわけではない。歴史学者の五味文彦氏は「いささか美文調ながら、義経の心情をよく伝えたものとなっている」と述べている(『源義経』岩波新書、2004年)。後世の脚色を認めつつ、一定の歴史的事実を反映しているという理解と推察される。
しかし、腰越状は全くの創作と見た方が妥当であると思う。
第一に、義経の生い立ちに関する記述の不審が挙げられる。腰越状で義経は自身の苦難の前半生を語っている。曰く、生まれてすぐに父の義朝が平治の乱で敗死したため、母の懐に抱かれて大和国宇陀郡龍門牧に逃れてからというものの、一時も心が安まることがなかった、京都での生活も困難になり、諸国を放浪して身を隠して、何とか生活してきた、と。
この記述が疑わしいのは、義経が挙兵に至るまでの経歴について具体性を欠いている点にある。
民衆の同情が生んだ「流浪の勇者」イメージ
良く知られているように、義経は継父一条長成のはからいで、将来僧侶になるために鞍馬山に登ったが、成人すると鞍馬を抜け出して自ら元服し、奥州の藤原秀衡を頼った(『吾妻鏡』治承4年10月21日条など)。