貧困とは「情報量の差」ではなく「文化」である

スーパーの方がコンビニより安い。ついでに言えばカップ麺より袋麺の方が安い。間違いなくそのとおりだ。正論である。

だが、そうしたお得な情報を持っておらず、あるいは行動する意思がそもそもないからこそ貧困に陥っている人は少なからずいる。そうした人は、スーパーとの値段を比較することなく住まいの近くにあるコンビニを訪れて「節約のつもりで」「値札をとくに気にせず」カップ麺を購入してしまう。

貧乏なら弁当や総菜を買うよりも自炊すれば安上がりなのもそうだろう。だが、貧しい人はもとより「調理をする」という習慣が生まれ育った家庭にはなく、十分な訓練を受けていないことが多い。また適切な材料を適切な量で買いそろえることができず、足りなかったり、使いきれず食材を腐らせてしまったりすることもよくある。一念発起して慣れない料理に挑戦し、多大な手間と労力をかけた結果として「まずいメシ」が完成してしまうと、調理を習慣づけるモチベーションを失う。

また部屋が狭く、調理スペースや調理器具、家電製品の用意でも乏しく大きな制約を受ける。冷凍室や野菜室のない一部屋タイプの冷蔵庫では「食材を保存する」という用途自体が失われてしまうこともある(往々にして飲料や酒類を冷やすためだけのものになってしまう)。そうなると結局、コンビニの弁当や総菜、そしてカップ麺などが消去法的に選ばれる。

ビジネスウーマンの買い物
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お米を買うにしても、5kgや10kgの大袋(1000~3000円くらい)を買う方が得なのは明白だ。だが、貧困層には数千円の「まとまったお金」をいちどに支払う経済的余裕がなかったりするし、もっといえば「まとまったお金を払って大きいのをひとつ買っておけば、チマチマと小出し小出しでモノを買うよりも中長期的にはお得である」という“トータルコスト”の概念がなかったりもする。よって、1kgや500gの小さな米袋を買ったり、レンジで調理するレトルト米を食事ごとにいちいち買ったりして、最終的に損をしてしまうのだ。

節約術を習得するのも、特売情報をキャッチするのも、料理スキルを磨くのも、中長期的な損得計算をするのも、これらはいずれも貧乏なら当たり前にやらなければならないものでも、当然やってしかるべきものでもない。それぞれ特別な訓練や慣習によって習得される「文化(カルチャー)」に近い。そうしたカルチャーを持っていない者は、お金がないのに「無駄遣い」な選択をせざるを得ず、ますます貧困に陥っていく。

私は決して「コンビニでカップ麺を買うような貧困層」を見下しているわけではない。これは知識や技能というより文化や慣習の問題であるのだ。