答えは意外と楽天的なところに

 世の中の矛盾って、基本的にはそんなにかたちは変わっていないと思うんです。誤解を恐れずに言えば、持っている人と持っていない人の矛盾というのは、全然解決していないどころか、持たない人がどんどん不利になっているような気もする。かといって、それを突破するのが政治家の政治や、運動家の運動、あるいは宗教とか、そういう時代でもない気がして。

『第四の消費』にもありますけれど、地域が空洞化して、商店街がみんなシャッターを閉め、何かをしなきゃいけないなということに対して、意外と楽天的な糸口があるような気がしてしょうがないんです。僕もいろんなところを転々と歩いて聞いているのですけど、そういうことを、運動家や政治家のことばではなく、楽しく発言できる人がいるべきだし、いて欲しい。三浦さんのご本にはそのヒントが書かれているので、読んでいてすごく明るくなったんですよ。

三浦 多少なりとも希望が見える本にしたかったので、そう言ってもらえるのは嬉しいですね。僕は今回「MY HOUSE」を観て、この映画は労働がテーマだと思いました。鈴本さんは、自分のことは自分で工夫して、自立する労働をしているわけです。普通、我々は、たとえフリーであっても自立していない。相互依存しているわけです。しかし、今、地方でなにか面白いことをやっている人は、お上から何か言われなくても、勝手に動いて、最初は玉石混交だったかもしれないけれど、最終的には自分たちで判断して、自分たちで事を動かしている。それは今回の震災で明らかになった。これは日本の歴史上けっこう珍しいことで、特に戦後珍しいのではないかと。

 なるほど。

三浦 だから『第四の消費』で坂口くんの本を引用したのは、みんなでホームレスになりましょうというわけではなく(笑)、自分のことは自分でやって、自分の頭で考えましょうよということなんです。中央から予算を持ってきてアーケードを作るとか、そういうまちづくりじゃなくて、そのへんに拾ってあるモノを工夫したら、面白い町ができるんじゃないのっていうことです。実はそれができる市民の力っていうのは、知らないうちに日本人の中に育ってきていると思うんです。

 ただ、それを「そうだ、市民の力は育ってきているので、君たちやりたまえ」と、霞が関の人は言いたくない。力がないふりをさせていてると。実際、力がないふりをすると、お金をもらえるような構造がある。「金はないけれど、自分たちでできますよ」って言われちゃうと、お金を回して動いている人たちや、補助金を付けてえらそうなことを言いたい人の立場がなくなる。それで国民の側も、まだ自分たちには力がないと言いたがっているところがあるのだけれど、実はできちゃうんじゃないかと。最小限の自分でできちゃっている暮らし方、自分たちだけでコミュニティを作って、情報を交換して、あそこに行くとアルミ缶が落ちているよという情報を交換しながら、得意分野を作って、分業して、喧嘩もするんだろうけれど、なんとなく暮らしていける。これは知恵がある生き方だと思うんですよ。

 そういう知恵のあるコミュニティがどんどん増えていって、僕は、それをなんの制約もなく保証することがほんとうの政治だと思うのですけれど、実は大逆行していて。

三浦 そうです。逆行している。

 だからひじょうに生きづらい感じがする。もっともっと、てんで勝手にバラバラに、みんなアナーキーにやっていけばいいのにと、僕は本音では思っているんです。