権力が集中する「国家警察隊」による治安維持を国民が嫌った

——マッキンリー大統領が暗殺されるまで、連邦政府のシークレットサービスによる正式な要人警護システムが確立されなかったのはなぜでしょう?

アメリカ人以外の人たちには問題が複雑すぎて理解しにくいかもしれませんが、理由の1つは、州単位の統治と連邦政府による統治とのせめぎ合いです。

そもそも、大統領の暗殺事件が、連邦レベルで裁かれる「連邦犯罪」の対象になったのは、1963年のケネディ大統領暗殺以降です。それ以前の暗殺は、(事件が起こった)州の犯罪として扱われ、州当局が暗殺者を裁きました。

注:1963年11月22日にテキサス州ダラスでケネディ大統領を暗殺したリー・ハーヴェイ・オズワルド(当時24)は同月24日、拘留されていたダラス警察署から刑務所に護送される際、ジャック・ルビーという男に銃で撃たれ、死亡した。

つまり、アメリカは政治システムを分散化しているのです。1901年9月6日、ニューヨーク州バッファローでマッキンリー大統領を撃った暗殺犯、レオン・チョルゴッシュは、ニューヨーク州当局に裁かれました。

注:チョルゴッシュは1901年10月29日、ニューヨークのオーバーン州立刑務所で処刑された。

権力の「分散化」という米政治システムの本質ゆえ、米国民は、いわば「国家警察隊」と言ってもいい、シークレットサービスによる要人警護システムの構築に懸念を抱いていました。連邦政府の大統領警護システムという新しい概念への順応に時間がかかったのは、そのためです。

もちろん、アメリカには、シークレットサービス以外にも、米連邦捜査局(FBI)など、実質的な連邦政府の警察機関があります。しかし、米国民には、そうした国家レベルの治安維持部隊のような存在を認めたくないという気持ちが強く、受け入れるのに長い時間を要しました。

「連邦主義」が要人警護システム構築の妨げとなった

とはいえ、ケネディ大統領が暗殺される頃までには、連邦政府と州から構成される、アメリカの「連邦主義」に大きな変化が訪れました。

ケネディ大統領の弟で、ニューヨーク州出身の上院議員であるロバート・ケネディ氏は1968年、大統領選の民主党指名候補争いの最中にカリフォルニア州ロサンゼルスで暗殺されましたが、犯人は連邦裁判所で裁かれました。

これを機に、それまで大統領のみだったシークレットサービスによる警護が大統領選候補者や、その家族にまで拡大されました。このように、連邦政府による要人警護システムの構築には実に長い時間がかかりましたが、その理由をひと言で表せば、「連邦主義」ということになります。

つまり、アメリカの政治システムは、連邦政府と州政府の大きな分断の上に成り立っているのです。そのため、国民は、連邦政府のシークレットサービスという国家警護システムの構築を嫌ったのです。