「常識」を強調する本当の理由
——太宗とは、どんな人物だったのですか。
たとえば「部下の話をよく聞く」というイメージについては、歴史に詳しかった18世紀の趙翼という学者が、「太宗が部下の諫言を聞き入れていたのは、治世の最初の方だけ」と書いています。
ふつうに史書を読めばわかることですが、少なくとも、唯々諾々と部下の進言を聞き入れるようなタイプではなかった。
そもそも、太宗が第二代皇帝の地位を手に入れた経緯からして、非常に血なまぐさい。皇太子だった兄・李建成と弟・李元吉に不意打ちを仕掛けて殺害した「玄武門の変」、つまり一種のクーデターによって強引に皇帝の座を手に入れたのです。
——日本のビジネスマンが理想のリーダーの鑑にしているのは、兄弟を殺して皇帝に成り上がった人物なのですか。
その通りです。だからこそ太宗は、兄弟殺しの後ろめたさを隠し、自身の正統性を広く世間に訴える必要があった。『貞観政要』も、そのようなプロパガンダの一環として作られたものです。
彼は狡猾な人物なので、歴史や記録の利用価値をよく知っていました。太宗は、長らく途絶えていた正史編纂事業をあえて復活させ、担当する史館まで設けて、先行する歴代王朝の史書を作らせました。そこでスケープゴートとして利用されたのが、前王朝の隋の二代目・煬帝です。
隋の煬帝は本当に「暴君」だったのか
——たしかに『貞観政要』には、隋の煬帝の話がよく出てきます。すごい暴君だったんですよね。
煬帝は、皇太子だった兄に陰謀を仕掛けて廃嫡に追い込み、父の文帝を殺して隋の二代目皇帝になったとされています。
派手好みで、都城建設や運河掘削などの大規模な土木工事に邁進し、さらに対外遠征も繰り返し、臣民たちに塗炭の苦しみを味わわせ、あげく内乱がおきて隋王朝は滅亡、煬帝も横死します。
しかし、このような悪評の多くは、太宗の命令で作られた史書『隋書』に記載されたものです。とりわけ父帝の弑殺などは、とても史実として信じられません。
もちろん、亡国の責を煬帝が負うべきだとは思いますが、どこまで額面通りに受け取って良いものか。むしろ煬帝をあげつらって、事実以上に貶めることによって、太宗自身の「名君」化を図ろうとしているように読めます。
たとえば、太宗は煬帝について、次のように語っています。
「隋の煬帝は暴虐の限りをつくしたあげく、匹夫の手にかかって果てたが、その死を聞いて嘆き悲しんだ者はほとんどいなかったという。どうかそちたちは、朕に煬帝の轍を踏ませないでほしい。……」
太宗は「偽善に長けた稀代の悪党」
——なるほど、たしかに煬帝をダシにして、自らの名君ぶりをアピールしているようにも読めます。
歴史を振り返れば、煬帝が都城を建設したのも、大運河を掘削したのも、高句麗への遠征を繰り返したのも、誰が帝位にあっても早晩やらなければならない事業でした。