その証拠に、太宗自身、皇帝に即位してからは、洛陽宮を建設し、大運河を掘り進め、三度にわたり高句麗へ遠征しています。つまり、まったく煬帝と同じコースを歩んでいるわけです。
しかし、まっすぐな性格で、気に入らない意見には耳を貸さず、自らを偽ったり粉飾したりしなかった煬帝に対して、太宗はもっと狡猾でした。
同じことをやるにしても、煬帝との違いを常にアピールして、自らに批判が集まらないように巧みに立ち振る舞って、名君に収まったのです。
そうした点、偽善に長けた稀代の悪党というべきでしょう。
「意地悪な読み方」がちょうどいい
——では、『貞観政要』に書かれているのは客観的な史実とは言い難いものなのですか。
根も葉もない嘘とは申せません。
ただし、そもそも中国において「歴史」とは客観的な事実ではありえません。司馬遷の『史記』は最初に「天道は是か非か」という命題を示して、その問いに答えるべく、史書を編み、史学を創めたのです。
つまりは毀誉褒貶、勧善懲悪のすすめであって、その判断基準は時の権力者・体制の都合で決まります。中国の人にとって、歴史にバイアスがあるのは当然であり、まさにイデオロギーそのものなのです。
——『貞観政要』のありがたみが減ってしまったような……。
いえいえ、これまで述べたような客観的な史実をしっかり踏まえた上で、一つひとつの問答を吟味すると、なかなか味わい深いものがありますよ。
どんな仕事にも構造的にさまざまな制約や課題があって、結局、前任者と同じようなことをやらざるをえないし、そうすると当然ながら同じような結果しか出せない。そのような中で、どうやって前任者との違いをアピールして、自らの評価を高めればいいのか――そんな視点でみれば、大いに参考になると思います。
ちょっと意地悪な見方かもしれませんが、歴史を研究していると、むしろ「悪党」とされる人物の方が、良くも悪くも学ぶところが多いというのが実感です。