過去の戦争からは、なにを学ぶべきか。立命館アジア太平洋大学学長の出口治明さんは「戦争は始めるより終わらせるほうが難しい。ポーツマス条約やヴェルサイユ条約が次の戦争につながってしまったように、大きな戦争後に結ばれた平和条約でうまくいった例は少ない」という――。

※本稿は、出口治明『戦争と外交の世界史』(日経BP)の一部を再編集したものです。

日露戦争を終わらせたい伊藤博文が頼った相手

1904年に日露戦争が始まったとき、明治政府の元老だった伊藤博文はただちに前司法大臣の金子堅太郎をアメリカに派遣しました。金子はハーバード大学に留学したとき、セオドア・ルーズベルトと同窓でした。そのとき以来、金子とルーズベルトは親友でした。そして日露戦争が始まったとき、ルーズベルトはアメリカ大統領だったのです。

セオドア・ルーズベルト
セオドア・ルーズベルト(作者=M.P.Rice/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この関係を知っていた伊藤博文は、金子にルーズベルトとの旧交を温めさせ、日露戦争を早期に終わらせるよう斡旋してくれることを、ルーズベルトに依頼する任務を託したのです。国内に革命の危機につながる政治不安があっても、当時のロシアは世界に名だたる強国でした。総合的な国力を考えれば、本来、日本の勝ち目はうすい戦争です。

伊藤博文は痛いほど、このことを熟知していたので、なるべく早く有利な条件で停戦条約を結ぶことが、日本の死活にかかわることだと考えていました。戦争の早期終結のために、当時、日の出の勢いで国力を増大させている大国、アメリカに一役買ってもらおうと画策したのでした。

ポーツマス条約を結べただけで大成功のはずが…

伊藤の目論見は成功しました。ロシアはルーズベルトの斡旋に応じ、両国は1905年にポーツマス条約を結んで講和しました。日露戦争が始まった時から、終結に向けてしっかりした計画をして策を立てた伊藤の外交センスは特筆に値すると思います。

けれどそれから第二次世界大戦で無条件降伏するまでの、日本の外交戦略はまったく別の国家になったように、無策で稚拙でした。

また政府も報道機関も、日露戦争の実情を国民に開示しませんでした。すなわち、1年間の総力をあげた戦いで日本は、戦力も戦費も兵力も底をつき、ほとんど継戦能力が無くなっていたので、もしロシアが新しい戦力を投下してきたら、敗戦の可能性が極めて高かった。だからともかく停戦し、一定の戦果があっただけで良かったのだという事実を、国民には知らせなかったのです。