マッカーサーが言った「日本人12歳説」

戦後の日本を統治した連合軍司令官のダグラス・マッカーサーが言った「日本人12歳説」をご存じだろう。議会の委員会で質問に答え「現代文明の基準で測ると、私たちアングロサクソンが45歳であるのに対して、日本人はまだ12歳の少年のようだ」と述べた。彼らが信仰のように大事にしてきた民主主義、自由主義の理想や思想的価値観をものさしにして「成熟度」を測ると、そういう見方になる。

こういう考え方をするのは西洋人ばかりではない。日本人も、西洋側からの視点に立って日本的な感覚を「素朴」とか「原始的」などといいがちである。だが、果たしてそうだろうか。明治以来、日本人は西洋についてよく知ろうとしてきたが、自分たちの特性については西洋型を前提にして批判するという形でしか考えてこなかっただけであろう。だからそのような捉え方になるのである。

例えば日本ではよく、その場の空気で大切なことが決まる。それは悪いことのように思われがちであるが、言葉で言い表せない微妙なところを空気で補完しているわけで、あながち悪いことと言い切れない。いや、そもそも日本人がそれでうまくいくのなら、むしろ良いことなのではないか。

日本人は「談合」を悪いことだと思っていない

だいたい日本人は公共工事の談合を、心の底ではそれほど悪いことだと思っていないだろう。現代では法律で禁止されているが、それは建前で実態は今も因習として残っている。

撮影=平井玲子

西洋的フェアネス(公正)の精神からすると非常にアンフェアネス(不公正)ということになるが、みんなが順番に落札者になれるように、入札業者同士で事前に話し合って「調整」することで、誰も損をしない。それによって、新規参入が阻まれ工事が手抜きになるなどという人もいるだろうが、ひょっとしたら西洋化以前は、日本人は談合と併せてそうしたことをきれいに排除する手だてを持っていたかもしれない。なかったかもしれないし、あったかもしれない。そんなことは今となっては、誰にも分からない。

大相撲で、対戦相手がもう一勝できなければ番付が下がるという局面でわざと負けてやる「人情相撲」がある。これも西洋的な価値観を基準にすると、著しくスポーツマンシップに反することになるが、例えば優勝争いに影響しない消化試合で星の貸し借りをして、果たして誰が損をするのだろう。