物事の実態を言葉で伝えるのは不可能である

人間社会はある意味、言葉が支配する社会である。

ところが、物事の実態をそのまま言葉で伝えるのは難しい、というより不可能である。よくいって、せいぜい実態を補完するものでしかないのに、それを絶対視しようとするから、戦前戦中の日本のように、言葉に実態を合わせようとするようなちぐはぐが起きる。

だいたい言葉が介在する世界は相手の話を一応は聞かなければならない。黙っていたら、返答を求められる。そういう世界は面倒で、疲れる。

その点、まるはしゃべらない。嫌なものは嫌だし、好きなものは好き。気楽なものだ。配慮もなければ、忖度もない。実に正直である。寝床で添い寝をしていて、朝起きると、えさをくれという。言葉で「くれ」と言えないので、鳴くか、寝ている私の顔をなめるか。こちらはああ腹が減っているんだなと気付く。それで用事は足りる。えさをやって腹が膨れると、ごちそうさまも言わなければ、ありがとうも言わない。はい、さようならという感じでどこかへぷいと行ってしまう。

人間は自分の興味のある物しか憶えていない

まるやその前のチロだけではなく、わが家はだいたい猫を飼っていた。子どもの頃、いつも不思議に思っていたのは、彼らが何年たってもしゃべらないことだった。

言葉を話すか、話さないか。これは人間と動物の大きな違いである。どうして動物はしゃべれないのか。それは、動物が感覚を頼りに生きていることと関係がある。

例えば視覚も、すごく敏感に物の違いを見ている。チンパンジーの子どもは「カメラアイ」を持っている。カメラアイというのは、目に映った物をカメラのように、ぱっと映像の形で記憶してしまう能力のことで、「写真記憶」「直観像記憶」ともいわれる。

撮影=平井玲子

人間は、自分の興味ある物に焦点を合わせて見るから、そこしか憶えていない。見た物の大半は家に帰ったら忘れてしまうが、チンパンジーの子どもは目に映った物の細部を短時間で記憶する。大きな部屋に人を100人集めたとして、私たちはそれをすべて同一の「人」と認識できるが、それができるのは人間だけである。

動物はこれをやらない。まずそれぞれの違いに気付く。例えば、その部屋にまるを連れてきたとすると、どうなるか。おそらく別の個体が100人並んでいると感じるだろう。チンパンジーのカメラアイも、こうした感覚を優先する動物としての能力の一つと私は思う。