人間はなぜしゃべれるのか
同じように、動物は言葉を感覚的に音として捉えている。まるが名前を呼ばれて反応しているのは、おそらく声のトーンによって自分が呼ばれていることを聞き分けているからであろう。
あるいは、白板に黒いペンで「白」と私が書くとしよう。まるはおそらく白色を連想しない。なぜなら、その文字が黒いからである。同じように黒いペンで、「赤いリンゴ」と書いても、まるが認識するのは、そう書かれた黒い線だけであろう。
反対に、人間はなぜしゃべれるのか。それは、意識が優先するからである。人間の意識には、感覚から得た刺激をすぐに脳みその中でたちまち意味に変換し、「同じ」にしてしまうという働きがある。
私たちがその部屋へ行き、100人の個体を見ても、「人」という概念で一括りにできる。それゆえ、認識を共有して、言葉のやりとりが可能になるのである。だが、それが良いことずくめであるとは限らない。
人間は実態よりも意味を優先してしまう
人間は意識を優先させるがため、何にでも意味を付けようとする。ほうっておくと、実態よりも意味を優先して、ちぐはぐを起こす。自然をコントロールしようとして森林を破壊してしまうのも人間だし、資源を見つければ根こそぎ取り尽くしてしまうのも人間である。先ほどの戦前戦中の言葉の問題も、構造は同じといえよう。
人間社会で暮らしていると、自然に人間社会の垢がたまってくるので、感覚の世界を時々、確認したくなる。まるをものさし、つまりある種の基準として観察することで、私は自分の生き物としての自然な感覚を忘れないように、生身の自分を調整していたのである。
人間社会を見れば、西洋はアジアと比べてはるかに意識中心の世界である。
その意識は、自分が見たり触ったり感じたりした物事を、どんどん抽象化して「同じ」にする。いつもいうように、リンゴとミカンがあれば「果物」に抽象化する。それにサンマが加わると「食べ物」になる。抽象化は、このように階層を成していて、「同じ」を繰り返して突き詰めていくと、最後は一つになる。
その頂点は何か。私はそれが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような一神教における「神様」であると思っている。ところが、自然を基礎に置く日本人は、物事をそれほど理屈中心で考えない。だから、神様も「八百万」である。そのような日本人の信仰を、私は「実感信仰」と呼んでいる。西洋のように、唯一神にはならない。ちなみに、西洋的な抽象化の階層でいえば、「実感」は最下層にある。