群衆の力をいい方向に転じるには

たとえば、教育によって、群衆も徳性を備えることができると論じている。そうすれば、群衆は社会をいい方向に変える力となりうるのだ。

その可能性について論じているのが、オルテガの『大衆の反逆』(岩波文庫、2020年)である。オルテガは大衆という言葉を使っているのだが、彼のいう大衆もやはりル・ボンの群衆と同じ危険な存在であることには変わりない。

なぜなら、彼の生きた20世紀は、ファシズムあるいは共産主義によって、人々が社会の秩序をひっくり返そうとしていた時代だからである。

大衆は、いわば根無し草になってしまっていて、自分で判断することなく、付和雷同的に扇動されるだけの存在だったのだ。

しかし、だからこそオルテガは、大衆がしっかりと自分の根を持つべきことを訴えたのである。

彼の言葉を用いると、「貴族」になることによってそれは可能になる。貴族といっても、身分の話ではなく、あくまで精神的な貴族のことである。精神的な貴族は、真理の探求を欠かすことはないという。おそらくこれが、根を持つための方法なのだろう。

西洋の文脈だけだとわかりにくいかもしれない。日本を例にとろう。

通勤する人々
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日本の政治界が変わらない理由

政治学者の丸山眞男は、よく知られた論稿「『である』ことと『する』こと」のなかで、前近代的で日本的な「である」という価値観と、近代的で西洋的な「する」という価値観を対比している。

わかりやすくいうと、日本では、現代になってもまだ前近代的な「である」価値観を引きずっているため、物事に働きかけて変えようとしないということである。

だから、近代的な「する」価値観によって、政治の場面において自由を獲得したり、民主主義を活性化しないといけない、というわけである。

ところが、ことはそう単純ではない。「である」価値観が求められる場面もあるのであって、そこに「する」価値観が入り込むというようなことも起こっている。

それに、先ほどの「する」価値観が求められるべきところに「である」価値観が居座る、という現象も起こっているのである。丸山は、これを価値の転倒と呼んでいる。

本来、求められるべき価値が転倒しているのである。

その最たる例は、学問や芸術の世界だという。学問や芸術においては、むしろ「である」価値観が求められなければならないのに、そういう価値の蓄積が行われず、「する」価値観によって、その時だけの実用が重視されてしまっているのである。

そこで丸山は、価値の再転倒を主張する。「ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつく」べきだ、というのである。

つまり、学問や芸術の世界において、しっかりと「である」価値観を確立した個人が、政治の場面において「する」価値観を行使すべきだということだろう。

いい換えると、これは、個々人がしっかりとした根を持つということではないだろうか。

奇しくも、丸山もオルテガと同じく貴族という言葉を使っている。学芸によって教養を身につけよ、といいたいのだと思う。

時に、丸山の言説はエリーティズムだと非難されることがある。