河北新報社●1897年1月17日、一力健治郎により創刊。当時としては画期的な英文欄の創設、無休刊宣言などを行う。1945年の仙台空襲では、社員決死の消火活動で新聞発行を続けた。2008年、紙齢4万号に。社員数は約560人。東北6県に8総局と28支局を展開する。

3月11日14時46分。夕刊の締切も終わり、遅めの昼食から編集局に人が戻りはじめた頃だった。社内に残っていたところ、経験したことのない激しい揺れ。真っ先に頭に浮かんできたことは、「新聞は出せるのか」――。

記者としても30年以上のキャリアを持つ河北新報社編集局長の太田巌さんは、当時の様子を訥々と振り返った。河北新報は創刊115年の歴史を持つ東北随一のブロック紙だ。震災発生からの同社の奮闘を克明に記したのが本書である。大災害の猛威を前に、地元の情報を渇望する読者が、新聞を待っていた。

「復旧にいくぶん時間はかかったものの、新聞制作に不可欠なサーバーや輪転機には問題がないとわかりました。復旧を待つ間、災害協定を結んでいた新潟日報の強力なバックアップで急場を凌ぐことができたのです」

こうして、1897年から続く紙齢更新の危機はかろうじて免れた。その後、配送網の寸断や燃油不足に悩まされながらの、全社を挙げた戦いが始まる。

「とにかく、読者に新聞をお届けして、少しでも希望を持ってもらいたいという一心でした」

記者たちを苦しめたのは津波の被害だけではない。福島第一原発の事故も、課題を突きつけてきた。

「状況を見て、当初は福島の記者に退避を指示しました。安全に取材させるという意味では正しい選択だったと思います。しかし、河北新報の名が示す通り、私たちには白河以北をきっちりカバーするんだという気概がありますから、指示した私自身にも葛藤がありました。福島総局の記者が、『福島にいる記者として福島で取材しないで何の価値があるのか』と直訴しにきたのは、正直理屈抜きで嬉しかったですね。俺たちの取材が拠って立つべきところは、住民と寄り添う姿勢にあるのだ、と」

昨年9月にはこども新聞を創刊した。当初の目標だった4月創刊を震災の影響で見合わせたが、なんとか発刊に漕ぎ着けた。新聞の信頼性が見直されるなか、未来への布石も打っていく。

「いまだ震災真っ只中の印象です。確かに瓦礫は片付きつつありますが、その先が進まない。復興は緒に就いたばかりです」

本書で印象に残るのは、インタビューに応じた記者やカメラマンたちの多くが、「あのときどうすべきだったのか、今でも答えは出ていない」と述べていることだ。自分たちの行動は正しかったのか。自問自答の日々はこれからも続く。河北新報は多くの苦悩を抱えながらも、東北の人々の期待を背に、今日も紙齢を更新し続ける。

(永井 浩=撮影)