「『姥捨山』に捨てたと思われたくない」

「独身男が母親と2人で暮らしているだけで、近所の人たちからは白い目で見られるんです。『あそこの家、息子が40過ぎても独身で、お母さんと同居しているのよ』と。介護を人任せにするのは世間体が悪いでしょ。まして施設に入れるなんて。『姥捨山』に捨てたと思われたくないんですよ!」

野沢さんが声を荒らげたのは、この時が初めてだったと記憶している。言い終えると、力尽きたようにうなだれた。疑心暗鬼のようだが、彼がこのように悪いほうへと考えを膨らませるきっかけとなる、世間の目があったことも否めないだろう。

平日の2日間、デイサービスを利用するほかは、訪問介護サービスを必要最低限に抑え、入浴介助をはじめとする身の回りの世話は自力で行っているが、特に料理には手こずっているという。

「残業ができないのはもちろん、早退しなければならないときもあって、職場のみんなと同じように仕事ができないのが悩みの種」と漏らした。情報サービス企業の営業部門の課長に昇進して半年余り。多忙な職務に管理職としての重責が加わった状況での慣れない母親の介護に、心身ともに疲弊している様子だった。

「男のプライドを傷つけてまで会社にいたくない」

そして16年、母親を在宅で介護するようになってから4年が過ぎた45歳の時、思い悩んだ末に辞職するのだ。この自ら決断した選択がその後の彼をなおいっそう苦境に立たせることになろうとは、介護離職した時点では想像していなかったのではないだろうか。

介護離職から2年後の18年のインタビューで、こう心境を語った。

「母の介護で、もうとことん疲れ果てて、単純なミスを繰り返すようになって……挙げ句には取引先との商談に遅刻したり、先方に誤って他社の事業計画の話をしてしまったりする始末で……。課長に昇進した頃は、プレーイングマネジャーとして記録に残るような営業成績をあげる心意気だったのに、管理職としても、営業マンとしても、何の役にも立っていない、そんな自分が情けなかった……そのー、何というのか、プライド、そう、自分の男としてのプライドを傷つけてまで、会社に居座ることができなかったんです」

母親を介護していれば、なおさら重視しなければならない経済面の心配や、働くという生活時間の大半を費やしてきた営みを失い、社会との接点がなくなることへの不安には全く触れず、「男のプライド」を強調した。

介護離職によって収入が途絶える心配はなかったのかを尋ねると、野沢さんは苦悶の表情を浮かべて言葉に窮した。

「さあ、どうだったかな……そこまで考える余裕がなかったんじゃないでしょうか」

数分の後、発した言葉はまるで他人事のようだった。