紀元5世紀のアレクサンドリアに、ヒュパティアという女性哲学者がいたことは、日本ではほとんど知られていない。今回はこの女性を紹介したい。19世紀英国の作家チャールズ・キングズレーは、児童文学の『水の子』で僅かに知られるが、このピュパティアを主人公とした長篇小説『ハイペシア』(ヒュパティアの英語読み)を書いている。私がこの作品と人物を知ったのは、森田草平の小説『煤煙』に、作品名が出てきたからである。大正時代に、村山勇三が翻訳を出しているが、訳文が古いので、新訳を出してほしいと思う。しかし谷崎潤一郎もこれを読んで、冗漫だと言ってあまり感心していない。
ソクラテスやプラトンの古代ギリシア哲学は、次第にキリスト教が広まると、異教の哲学として忘れられていき、プラトンなどはむしろイスラーム圏で読まれ、それが12世紀以降、ヨーロッパに逆輸入されて、ルネッサンスの原動力の一つとなった、というのは良く知られた話である。ヒュパティアは、数学者の父をもち、そのプラトン哲学の研究者であった。当時キリスト教はローマ帝国の国教とされ、その総主教座は、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキアの4か所にあった。のちアレクサンドリアとアンティオキアはイスラームの勢力圏に入り、15世紀に東ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノープルはイスタンブールとなり、キリスト教圏ではなくなって、ローマだけが残ったのである。うちアレクサンドリアの総主教キュリロスの下で、キリスト教徒とユダヤ教徒の争いが激化し、その騒動の中でヒュパティアは無残な死を遂げるのである。
キングズレーの『ハイペシア』は、ナイル川を深くさかのぼった所にある修道院の修道僧ピラモンが、それまで見たことのなかった「女」というものを見て、外の世界を知りたいと思い、師匠に願い出て、アレクサンドリアへ上ることになるという発端から始まる。中世を舞台とした小説にしばしば見られる設定である。ナイル川をさかのぼる途次、ピラモンはゴート族の荒々しい男たちと女とに遭遇する。アレクサンドリアでは、ローマ帝国の統治者のラファエル・ベン・アズラ、オレステスといった人物があれこれと策動している。
ボエティウスの『哲学の慰め』という本は、岩波文庫にも入っている。これは東ゴート王国がローマを支配していた6世紀初頭に、東ゴートに仕えながら、反逆の疑いで投獄された際に、獄中で書いたもので、やはりプラトンなど古代ギリシア哲学にのっとったものである。私たちはキリスト教が登場してから、西洋世界がキリスト教一色になったかのように勘違いしているものだが、実際には5世紀ころには、こうした古代哲学とユダヤ教やキリスト教が、地中海世界でせめぎ合いを演じていたのだ。
もう7、8年前のことだが、私は明治大学の英文科の非常勤講師として、この『ハイペシア』の訳読を2年ばかりやったことがある。当時は、インターネットで国会図書館の図書目録全部が見られなかったため、翻訳があることに気づかず、訳文を作成して、完成したらどこかから出して貰うつもりでいた。その後見つけた村山訳も文章が古めかしいので、なおやるつもりでいたが、インターネット上に新訳を載せている人がいたのでやめにした。
などと書いていたら、今度、ヒュパティアを主人公とした映画『アレクサンドリア』が公開されることになったようだ。これを機にこの女性哲学者が広く知られるようになればよいと思う。キングズレーの小説も刊行されると喜ばしい。私も翻訳しておけば良かった。