「久遠に轟(とどろ)く ヴォルガの流れ」という歌い出しで知られる、与田準一訳詞のロシヤ民謡の主人公ステンカ・ラージンは、17世紀ロシヤの農民反乱の指導者である。当時のロシヤは、アレクセイ皇帝を戴き、東方へと版図を広げていたが、後に小国に転落してしまうスウェーデンやポーランドが、当時は大国で、南方にはイスラーム教のオスマントルコがあり、戦を繰り返していた。コサックというのが、その軍隊の重要な一部をなしていたが、これはカスピ海の北側、ドン川とヴォルガ川の周辺に住まう、兵士にして農民の一群で、ロシヤ皇帝に雇われて戦地に赴いていた。ピョートル大帝出現以前のロシヤは、皇帝の権力もあまり強くなく、大貴族が支配していた。

たび重なるトルコとの戦いに駆り出されたコサックは、給料の不払いに不満を募らせていた。ステンカは本名をステパンといい、コサックの指揮者の次男に生まれたが、兄は反乱の罪で処刑されていた。アンドレイ・サハロフの『ステンカ・ラージン伝』(たくみ書房)は詳しい伝記である(有名なサハロフ博士とは同名異人)。たくましい若者に成長したステパンは、ステンカのあだ名で呼ばれ、ロシヤ貴族への不平不満のたまった農民たちの間で指導者となり、遂に謀叛を起こす。まずカスピ海を下り、ロシヤの同盟国であるサファヴィー朝のペルシア帝国へ攻め入ったのである。

民謡の二番は「ペルシャの姫なり 燃えたる唇(くち)と」となっている。これはステンカが、ペルシャの貴族の姫をさらって船に乗せたという伝説に基づいている。その後「奢(おご)れる姫なり」とあり、コサックの群れから、自分らは飢えているのに姫は食っていると「誹(そし)り」が起き、ステンカは姫を頭上高く差し上げてヴォルガ川へ投げ込んだ、という伝説が知られている。これが事実かどうかは疑わしいのだが、この伝説を伝えたのは、反乱が終って10年ほどたって、スウェーデンの使節団に加わりペルシャを訪れたドイツ人・エンゲルベルト・ケンプフェルである。これは、のち日本へ来て、将軍徳川綱吉に謁見し、『日本誌』を書いたあのケンペルとも表記される人である。

農奴の解放、貴族の専制の廃止を掲げ、カスピ海北岸に戻ったステンカ・ラージンは、当初5千人程度だったのが、3万から5万へと膨れあがり、遂に、皇帝を大貴族たちの専横から救い出すという名目の下、首都モスクワへ向けて進撃を始める。皇帝は、ドルゴルーキー公をステンカ討伐軍司令官として派遣し、各地で戦闘が展開されたが、ステンカは名付け親の裏切りに逢い、弟と共に捕えられてモスクワで斬首された。反乱は足掛け4年にわたった。

先にあげたサハロフの本は、ソ連時代のものだから、ステンカの反乱を、ロシヤ革命のさきがけとして評価している。その後18世紀後半には、プガチョフの反乱も起きている。ステンカの敗北の後も、民衆はステンカについての伝説を伝えていき、それが冒頭の民謡「ステンカ・ラージン」になったわけで、この歌は、ヴォルガ川、コサックなど、ロマンティックな風味を帯びていて、想像をかきたてる。この連載は「敗者」を扱っているが、人はみな、勝者になりたがる。「勝ち組」などという、本来日本敗戦の際のブラジルにおける争いに発した語が流行するのもそのせいだが、負けた人生もまた、後代の人々に勇気を与えることができる、ということを、ステンカは示していると言っていいだろう。むろん、ロシヤ革命と結びつける必要はない。ステンカ・ラージンの歌が今も愛唱されるのは、曲が優れているからだけではなく、貴族支配に立ち向かって敗れた英雄が、人々に後のちまで愛されたからであろう。