気ままな性格なのは「そのキャラだから」
今では男女の平等は、理念だけでなく感覚的にも自明ですが、当時は、社会的扱いも男女双方の自覚面でも、大きな違いがありました。1970年代はウィメンズ・リベレーション(通称ウーマン・リブ)運動が注目された時代でもありましたが、そこでは対男性の「闘争」が強調され、また女性解放を性の解放と捉え、性的放恣を「進歩」とみなす風潮もありました。萩尾作品にも自分の現状と戦う男女が出てきますし、性的に放恣な女性も登場します。
しかし萩尾作品の男女は、恋をするにあたり、それをイデオロギーとして行うことはなく、またイデオロギーを口実にすることもありません。萩尾作品では男性であれ女性であれ、気が多いのはその人の性格であり、意思の問題です。恋は個人の領域に属し、結婚は個人と社会(家族)にまたがる問題、そして社会的対等性は個人の指向を超えて社会的課題です。
宇宙人たちが対立よりも対話を重んじる姿を描き切った
余談ながら「ポーチで少女が小犬と」(『COM』71年1月号)作中の本棚に並ぶ本のタイトルは、人物や吹き出しで隠れつつも、いくつかは読み取ることができます。そこには『星の王子さま』『恐るべき子供たち』『メアリー・ポピンズ』『罪と罰』、さらには『COM』や〈ピーナッツ・シリーズ〉(スヌーピーの本)の幾冊かが並んでいるのですが、驚いたことに『11人いる!』のタイトルも見えるのです。75年に発表されることになるSF作品の構想が、70年の時点ですでにあったことが窺われます。
『11人いる!』の発想元は宮沢賢治の「ざしき童子のはなし」だそうですが、そういえば「クールキャット」(『なかよし』70年2月号)のローマ字ラクガキには〈民話も好きだよ〉という一節がありました(※)。
(※)SFファンである萩尾望都は、少女漫画でSF作品を描くOKが出なかったとき、描きたくても描けない自分の好きなものたちについて、しばしば作品中にローマ字で落書きして告白していた。
フロルは座敷童ではありませんが、みんなが気になる存在。その後、タダと恋人同士になるのですが、喧嘩すると時々「男になる!」と宣言して、女性にモテたりします。『11人いる!』の続編『東の地平 西の永遠』では、危険を冒すタダが、どうしても一緒に行くというフロルに「……じゃあ婚約を解消しよう/つれて行けない」と言うのですが、けっきょくフロルは「オレついてくよ/おまえがあまいの/ちゃんと知ってるもん」と我意を通す場面があります。男であれ女であれ、フロルは自分の意志を貫き、冒険も辞さない存在なのでした。
『11人いる!』ではジェンダーにとどまらず、多様な歴史的背景や体の組成を持つ宇宙人たちが登場し、多様な思考を見せます。そんな彼らが受験という一種の競争の場において、疑惑よりも信頼を、対立よりも対話を重んじる姿を描き切ったことが、SF少女漫画の存在意義を強く印象付けました。