20世紀の常識を破り、「男女の対等」を探る物語
小松左京は〈SF的な骨格の強さとストーリー性、そして表現力に驚いた〉(「モト様」『文藝別冊 総特集・萩尾望都』2010)と回想し、手塚治虫は〈あなたのSFマンガについては、女性ファン、男性ファンを通じて、SFファンとミックスしてる〉〈SFファン=萩尾ファン、というのが多い〉〈『11人いる!』は、スペース・オペラとしての傑作だと思ってるんです〉と述べ、さらに〈『トーマの心臓』とか、有名なドラキュラの話『ポーの一族』なんていうのは、完全にニューウェーブに近い〉(対談「SFマンガについて語ろう」『別冊新評』41号、1977年7月)とも言っています。
ニューウェーブSFは、外宇宙から内宇宙──心理内奥や精神世界へと探究の対象を広げた作品です。つまり萩尾SFは内面探求の物語だとの指摘でした。
また当時は気付かなかったのですが、『11人いる!』は対等な関係性を探る物語でもありました。それは萩尾望都の特徴であり、やがて佐藤史生や水樹和佳にも引き継がれる新たな男女関係・人間関係の模索表現でした。
少年漫画でも友情はドラマの要のひとつですが、そこにはおのずから主従関係にも似たリーダと支え手の役割分担があります。『巨人の星』の星飛雄馬と伴宙太はその典型。対等であるためには『あしたのジョー』の矢吹丈と力石徹のように真っ白に燃え尽きて死ぬまで戦い続けねばならない。
男同士でそうなので、まして男女の真の対等など、80年代、90年代になっても少年漫画ではギャグ以外には存在しなかった。少女漫画でも主流はやはり男女役割分担型恋愛。それはいわゆる少年愛物でも20世紀には同様でした。対等ではなく主と従がある関係。
その固定概念を静かに自然に、しかし決然として破り始めたのが萩尾望都でした。
この作品は科学設定にうるさいSFマニアにも熱く支持され、毎年夏に開催されるSF大会などでその場にいる人数を数えて、何人いても「11人いる!」と言うのがしばらく流行りました。私たちの世代は今もやるかも。
愛されるジェンダーSFのアイドル、フロル
この作品に登場する宇宙人たちは、みな個性的でそれぞれ人間的(?)な魅力がありますが、一番気になるのは何といってもフロルベリチェリ・フロルの存在でした。辺境惑星ヴェネ出身のフロルは、美少女に見えるのに男だと自称し、他の受験生たちを困惑させます。
じつはフロルは、幼少期は雌雄未分化な種族で、その時々の当人の意思や感情を反映して少年のようにも女性のようにも見えるのですが、萩尾はそれを服装やポーズではなく、表情だけで描き分けました。
それだけでも驚異的ですが、フロルが画期的だったのは、性別を自己選択できるという設定のその存在を通して、男性と対等であることを自明として生きる女性を描き出した点にあります(最終的にフロルは女性になることを選択)。