“資源”を基準に付き合う人を選ぶことの落とし穴

契約などを結ぶため、にこやかに愛想を振りまいて会いたいといってくる人は、相手に資源があるからです。貯金の残高が少なければ、銀行員は近づいてきません。資源を持っていると判断した途端に態度を変えるような人を信じることはできません。

社会的地位や年収、また外見のような基準で人を選ぶ人、あるいは自分にとって付き合うことが有利であるかどうかを考えて会うか会わないかを決めるような人とは、付き合う必要はありません。

交友関係においても、会うか会わないかを何かの基準に照らして決める人は、もしも相手にその基準に適う条件がなくなったと判断すれば、何のためらいもなく関係を切るに違いありません。そのような人に選ばれなかったとしても、そのことで孤独になったと考えなくていいのです。

人と会う時に、会いたいという以外の理由を必要とするような人は、エラい人から会いたいといわれたら、約束を平気で反故にするでしょう。

他者に依存的な人は、自分が選ばれないことに絶望するかもしれませんが、自立した人であれば、外的な条件で選ぶような人に選ばれなくても孤独であるとは感じないでしょう。

他者からの評価は自分の価値とはまったく関係がない

ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスが、次のようにいっています。

「絶えず波が打ち寄せる岬のようであれ。岬は厳として立ち、水の泡立ちはその周りで眠る」(『自省録』)

まず、他者からの評価は、自分の価値とは関係がないことを知らなければなりません。だから、人からよく思われなくていいのです。たとえ仲間から外されることになったとしても、その仲間に属する条件を欠いていたというだけのことであり、自分の価値はいささかも減じません。

このことを私は就職活動をする若い人たちに話してきました。就職できなければ意味がないと思う人もいるでしょうが、会社に入るために自分の魂を売り渡すようなことをしてはいけないと私は考えています。

つまり、他ならぬ「この私」を採用してほしいと思うことが大切で、会社に合わせる必要はないのです。ある会社に就職できなかったとしても、それはその会社が求める人材ではないと判断されたにすぎません。そもそも、「人材」を採用しようとするような会社は、「個人」を見ていないのです。他の誰にでも代替可能な「モノ」としての社員が必要なだけです。

個人間の評価であれば、なおさら気に留める必要などありません。自分のことをよく見ている人もいれば、そうでない人もいるというだけのことです。