自分の価値を他人の評価で測る人は孤独を恐れる

自分が会う人を選ぶ側に立っていれば選択したのは自分なので、そのために人からよく思われず孤独になってもやむをえないと思えます。しかし、視点を変えると、他の人も自分を会うべき人、会いたい人として選ばない可能性があります。

もちろん、「あなたとはこういう理由で会えない」とか、「あなたはどうしても会いたい人ではない」というようなことを面と向かっていう人はいないでしょうが、いつの間にか人と会う機会が少なくなったのに気づくことになります。

こうして、以前は自分が孤独になるとは思ってもいなかった人も、他者から選ばれないかもしれないと、孤独を恐れるようになります。一人でいることではなく、対人関係の中で自分が選ばれず、仲間外れにされる事態を恐れるのです。

また、自分の価値を他者からの評価で測ってきた人であれば、自分のまわりから人がいなくなると、自分は選ばれなかったのだと思って自信をなくしたり、自分の価値が下がったと考えたりするようになります。

資源を持たない人は孤独を強いられるようになった

コロナ禍においては「つながりの格差」が生まれると考える人がいます。これは人に選ばれる「資源」を持っている人とそうでない人との格差です。資源を持っているというのは、人から会いたい、あるいは会わなければならないと思われる条件を備えているということです。その意味で資源を持っていれば、どんな状況でも人と会えますが、資源を持っていなければ、社会から孤立し孤独になるというのです。

コロナ禍の今は、人と会うか会わないかを決めなければならない場面があります。そこで、人からつながりを求められる人と、つながりを切られる人との格差が生まれている。「資源」を持っていない人は自分の意思とは関係なく孤立する。そこで、人とつながれる人とそうでない人の格差が生じたため、以前は孤独に生きることを自分で選択できたが、今は選択できることではなくなり、資源を持たない人は孤独を強いられる――というわけです。

問題は「資源」の内実、すなわち何をもって選ばれるかという基準です。人と会いたくない時は、先に見たように、会わない理由や誘いを断る方便が必要な時もありますが、人に会いたい時は、ただ単に会いたいから会いたいのであって、相手の社会的地位や年収、また外見のようなことを人に会う理由にしているとすれば、かなり奇怪であるといわなければなりません。