ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1978-89)では、「国際友好の義務を果たす」という政府の方針で、大量の若者が戦地に送り出された。やがて彼らは一人、また一人と、亜鉛の棺に納められ、人知れず家族のもとへ帰ってきた……。ジャーナリストとして初めてノーベル文学賞を受賞した作家による「戦争の記録」を紹介する――。

※本稿は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、奈倉有里訳『亜鉛の少年たち』(岩波書店)の「プロローグ」を再編集したものです。

1988年05月15日アフガニスタン・カブール戦車から手をふるソ連軍兵士
写真=AFP/時事通信フォト
1988年05月15日アフガニスタン・カブール戦車から手をふるソ連軍兵士

「バラバラの死体」殺したのは私の息子だった

ひとりで生きていきます……。これからは、ずっとひとりで……。

息子が人を殺したんです……いつも私が肉を料理するときに使っていたなたで……。戦争からは帰ってきたのに、ここで人を殺してしまった……翌朝、あの子は帰ってきて、もともとしまってあった戸棚に鉈を戻しました。ちょうどその日、その鉈でカツを作ってあげたはずです……。しばらくして、テレビや新聞の夕刊に、市内の湖で釣り人が死体を発見したというニュースが報道されました……。バラバラになった死体が発見されたって……。

友達が電話をかけてきて私に、

「ねえ、新聞読んだ? プロの殺しかたですって……アフガンの手口よ……」

と言ったとき、息子はソファに寝そべって本を読んでいました。

その時点ではまだなにも知らなかったし、心当たりがあったわけでもないのに、ふとあの子に目がいったんです。母親の勘かしら……。

あ、犬が吠えてるでしょう。聞こえない? この話を始めると、犬の鳴き声がするの。走ってくる足音も……。いまあの子がいる刑務所に黒い大型のシェパードがいて……職員もみんな黒服で、黒ずくめ……。

ミンスクに戻ってきて、パンや牛乳を抱えてパンの売店や保育園のある道を歩いていても、まだ犬の鳴き声が聞こえる。耳を塞ぎたくなるような声が。そのせいで目の前がかすんで、車に轢かれそうになったこともありました……。

「生きて帰ってくる!」生還を喜んだのもつかの間

息子のお墓に通う覚悟ならできていたんです……隣のお墓に入る覚悟も……。でもわからない……わからないわ、こんなものを背負ってどうやって生きていけばいいの。

たまに、台所へ行くだけで怖くなることがある、あの鉈がしまってあった戸棚を見るのが嫌で……。ほら、聞こえるでしょう?

なにも聞こえないって……ほんとうに?

いまあの子がどうしているのか、私にはわかりません。十五年後、どんな子になって帰ってくるのかも。判決は、重警備刑務所に十五年……。どんなふうに息子を育てたか、お話ししましょうか。

あの子が好きだったのは社交ダンスで……。二人でレニングラードのエルミタージュ美術館に行ったわ。一緒に本も読んだ……(泣く)。アフガニスタンにあの子を奪われてしまった……。

……タシケントから電報が来ました――「ムカエコウ、トウジョウキ○―××ビン……」。

私はベランダに飛びだして、思いきり大声で「生きてる! あの子が生きてアフガニスタンから帰ってくる! もうあの恐ろしい戦争のことなんか考えなくていいんだ!」と叫ぼうとして、気を失いました。

だから空港へは遅れてしまって、着いたときには息子の乗った便はとっくに到着していて、あの子は辻公園に寝転んで草を握りしめて、草の青さに目を丸くしていました。帰ってきたのが信じられないみたいで……。

だけど、まったく嬉しそうじゃなかった……。