「うさんくさくて陰険」片っ端から捕まえて、強制収容所送り
一方、西のガリツィア地方に住む人たちは、今日もカトリックの信徒がかなりいます。その多くはユニエイト教会(東方典礼カトリック教会)といって、やや風変りなカトリックです。
宗教改革に対抗する目的で16世紀に結成されたイエズス会は、東へ勢力を広げ、ポーランドやハンガリーからプロテスタントを駆逐したのち、ウクライナにも入って来ました。改宗を促すために、彼らは融通無碍でした。ローマ教皇が一番偉いことと、三位一体の教義において聖霊が父だけでなく「子からも(フィリオクエ)」発出するという教義さえ認めればいいという姿勢で、正教の特徴である「イコン(聖画像)」を拝むことや、下級の聖職者が妻帯することも許したのです。こうして独自の教会が出来上がっていきます。
ソ連はこういった動きを、ソ連の正教会をひっくり返してくる、うさんくさくて陰険なやり方だと考えていました。見た目は正教そっくりなのに内実はカトリックで、指令はローマから来ているからです。ロシア語の「イェズイット」を辞書で引くと「イエズス会士」とある後に「ウソつき、ペテン師」とあります。
第2次世界大戦後の1946年、このユニエイト教会は、「自発的によくよく考えてみたら、自分たちは正教徒だったと思うようになった」と言い始め、ロシア正教会の一部になりますが、これは表向きの話で、実際はソ連の秘密警察の強い圧力による併合です。
言葉も宗教も違うため、ガリツィア地方では武装闘争を含む激しい抵抗運動が起きました。ソ連はKGB(旧ソ連国家保安委員会)と軍隊を送り込み、抵抗する人々を片っ端から捕まえて、次々と殺害するか強制収容所へ送りました。強制労働で短くて7年、長いと25年収容されました。それでも10年以上、反ソ闘争が続きました。この時代に多くのウクライナ人が海外(特にカナダ)に亡命し、ウクライナの民族運動の中心になっていきます。
ソ連崩壊の過程で、このユニエイト教会を再興する運動が展開されました。その後、ウクライナ国内でウクライナ民族主義と結びつき、反ロシア勢力の拠点となったのです。