3000万円の留学費用返済を厭わず三菱商事から転職した理由

私自身は、三菱商事からサンリオに転職したときはさほど深い考えはなく、アメリカで仕事をするチャンスに飛びついただけでした。

思い返せば「いつか日本と海外をつなぐような仕事をしたい」という気持ちは子どもの頃から持っていました。新卒で三菱商事に入ったときも、「海外事業をやりたい」と思っていたのです。

しかし、担当したのは国内のエンターテインメント業界の仕事。もちろん、エイベックスやローソン、サンリオなどの事業に関われたことは恵まれていたと思いますし、当時は存分に仕事を楽しんでいましたが、三菱商事在籍時にハーバード・ビジネス・スクールに留学したことで、海外の仕事への思いは高まることになりました。

そんなときに、サンリオの故・辻邦彦副社長(当時)から「海外事業をやってみないか」と声をかけていただいたのです。

その時点で三菱商事を退職すれば、およそ3000万円のハーバード・ビジネス・スクールの留学費用は返済しなければならないルールでした。転職して、給料が上がる見込みもありません。それでも私は三菱商事を辞めて、サンリオに飛び込むことにしました。

そうやって思い切って環境を変えてみたところ、私は非常に大きな学びを得ることになったのです。

三菱商事時代はユニット制のような仕組みがあり、1ユニットが5人から十数人ほどの小さな組織で仕事をしていました。また、当時の私は主任クラスで、その上には当然、課長や部長がいました。

それがサンリオ米国法人に転職すると、最高執行責任者として100人近い現地従業員のトップを務めることになりました。

現場ではMBAの学びのとおりにいかない

当時の私に、経営の経験はまったくありませんでした。ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得していましたからリーダーシップ論もマネジメント論もそれなりに勉強はしていましたが、現場では教科書どおりにいくことといかないことがあります。

机の上の本と卒業スクロールのモルタルボード
写真=iStock.com/pcess609
※写真はイメージです

もちろん、自分の責任に基づく意思決定をしたこともありません。海外事業も「やってみたい」と思って勉強はしていましたが、実務をやったことはありません。

当時の記憶は少々あいまいで、とにかく必死だったということしか覚えていないのですが、新たな環境の中で「とにかく生き延びなければ」「絶対に成果を出さなければ」という思いを抱いていたことは間違いありません。

そしてそのような状況の中、いわゆる「スタディ」とはまったく異なる学習が始まったわけです。

サンリオ時代、私はハローキティのライセンスビジネスで業績を急回復させるなどの実績を残すことができただけでなく、経営者として組織運営を学び、知財ビジネスや海外での事業展開に関する専門的な知識や技能も身につけることができました。

そして今、シリコンバレーでそれらの経験や専門知識を十分に活用して次のステップを楽しんでいます。

今となっては、「転職しなかった自分」を想像することができません。

あのまま三菱商事にとどまっていたら、おそらくビジネスパーソンとして、これほど刺激的な日々を過ごすことはできなかっただろうと思います。