日本の皇族には、人間が人間として当然持っている基本的な権利、つまり「基本的人権」がない。九州工業大学名誉教授の佐藤直樹さんは「そもそも日本語の権利や人権には『正しい』というニュアンスがない。権利や人権はタテマエだと思われており、だから皇族の基本的人権がないことにも、多くの人が違和感をもたない」という――。
※本稿は、佐藤直樹『「世間教」と日本人の深層意識』(さくら舎)の一部を再編集したものです。
キリスト教の普及で「個人」の意識が誕生した
法律上の「契約」という概念があります。
これは『新約聖書』や『旧約聖書』にあるように、神との約束が原型です(『新約』は神との新しい約束。『旧約』は古い契約の意味)。
法律上の契約は、そこからきているといわれています。
欧米の場合、キリスト教が、近代法が成立するときに大きな影響を与えました。
またアメリカ憲法修正1条では、「政教分離」や「宗教の自由」や「表現の自由」がうたわれています。
あれは明らかに、キリスト教の自由な布教のために、国家権力にその活動を邪魔されないようにすることを意味していると思います。それがアメリカ憲法に反映された。
憲法の基本的人権がそこから生まれてきたわけです。人権は、個人とワンセットになっているものです。
日本では「個人」と「社会」が生まれなかった
では、個人が生まれなかったのは、日本だけなのでしょうか。
世界標準は「一神教」といっていいと思います。一方、日本は「多神教」で、宗教的なあり方が異なっています(とはいえ、本書は「世間教」というある種の一神教である、という立場で述べていますが)。
「社会」は、基本的に一神教を基礎にしてつくられています。おそらくイスラム教でも、神様との関係で個人が形成され、それで社会ができてきたという歴史があると思います。