中国は儒教の影響がありますが、中国人はものすごく自己主張が激しい。あれは、個人だと思います。インディビジュアルです。そういう意味では、やっぱり中国も「社会」なのだろうと思います。
韓国は3分の1がキリスト教徒です。つまり個人。韓国は儒教の影響もありますが、一神教の影響がものすごく強いところではないかと思っています。ですから個人と社会が生まれたのは、キリスト教の普及の影響が一番大きい。
そしてもう一つは、「都市化」です。農村が解体して、農村の次男、三男が都市に流れていき、いろいろな仕事を新たにはじめました。都市でさまざまな人間関係を新しくつくっていくことになり、社会が形成されるきっかけになります。
都市化は、日本にもやはり同じようにありました。
第二次大戦後、集団就職で上京する若い労働者を「金の卵」といったりしましたが、その日本になかったのはキリスト教です。キリスト教が支配するという伝統が、歴史の中で日本にはありませんでした。そのため、個人と社会が生まれず、「世間」は維持されていったのです。
明治になってようやく近代法が入ってくる
統一国家が成立する前の中世ヨーロッパは、法分裂の時代であるといわれます。
法は地方法、領邦法、都市法、家人勤務法、荘園法などに分裂し、同じ地域に種々の法が並立して存在していた。とにかくいろいろな法律があったわけですが、その後近代国家に統一されてゆく過程で整理され、憲法などの近代法ができます。
一方、日本でも江戸時代には、幕府の武家諸法度とか、伊達藩など各藩が定めた藩法もありました。が、これらは一応法とはいえますが、近代法とはまったく別のものです。
すでにふれたように、日本に近代法が入ってくるのは明治時代です。
現在の日本に「人権はない」といえるワケ
近代法の重要な概念として、「権利」や「人権」という言葉がありますが、「権利」という言葉は「Right」の翻訳で、「Human rights」が「人権」です。
江戸時代にはなかった言葉・概念ですから、それを翻訳したわけですけれども、では、現在の日本に権利、人権があるかといわれれば、はっきりいって、ないと思います。
辞書を引けばすぐわかりますが、英語の「Right」は、権利以外にもう一つ「正しい」という意味があります。「You are right.」といったら、「あなたは正しい」。権利を持っているだけで正しいわけです。
でも、そういうニュアンスが日本語の権利の中にはない。人権ももちろん「正しい」権利です。