古典派経済学の通念をことごとく破壊した

ケネディはハーバード大の教え子。政権発足時は要職を期待されたが、「インドの歴史や文化に感銘を受けた」と駐印大使を務めた。

ケネディはハーバード大の教え子。政権発足時は要職を期待されたが、「インドの歴史や文化に感銘を受けた」と駐印大使を務めた。

バブルだろうと景気変動だろうと、我々は未来を見通す力を持たず、予測を可能とするような確固とした道しるべも持ち合わせていない。我々の生きているこのような時代を、ガルブレイスは「不確実性の時代」と呼んだ。これは監修を務めた英BBCの連続番組のタイトルとなり、その後、本にまとめられ、世界的なベストセラーになった。

アダム・スミスから、リカード、マルクス、レーニン、そしてケインズへと至る経済思想史をたどりながら、「確実と思われた経済思想」がなぜ規範性を失ったのか、その歴史的背景を明るみに出そうとしたのが『不確実性の時代』である。

彼の著作は平明、平易、現代の経済を解き明かそうとする場合にもグラフや数式は用いず、「ゆたかな社会」や「新しい産業国家」のイメージを言葉の力によって描き出そうとする。彼は経済学者というより経済批評家と見なされてきたが、言葉の力は時として数学の力にまさる。彼の友人であったサミュエルソンは、「私たちノーベル賞受賞者の大半が図書館のほこりをかぶった書棚の奥の脚注に葬り去られる時代になっても、ケン・ガルブレイスは(中略)忘れ去られることもなく読まれ続けるだろう」(リチャード・パーカー『ガルブレイス』)と述べている。

ガルブレイスが異端派とされたのは、正統を自任する新古典派経済学の通念を、ことごとく破壊したからだ。たとえば彼は、新古典派理論の要である「消費者主権」に異議を唱えた。新古典派の市場理論では、消費者は予算制約のもとでみずからの選好にもとづいて合理的に消費を行う。市場は「ドルによる投票」の場、人々の好む商品に票(ドル)が集まり、企業は多くのドルを稼ぐ商品に多くの生産資源を振り向ける。企業は消費者に依存した存在なのだ。

ガルブレイスはこの消費者と企業の関係を逆転させた。自動車や電気製品といった現代の複雑な工業製品の品質を誰が判定できよう。消費者は企業の宣伝・広告に操られて消費活動を行うのが真相ではないか。これが、『ゆたかな社会』で論じられた消費の「依存効果」である。

消費者の欲望が企業によってつくられ、際限なく膨らんでいくとしたら、消費はもはや予算の制約には縛られなくなる。10万円しか所得がなくても、彼は20万、30万円もする流行商品を追い求めるだろう。不足する資金を手当てするのが金融機関だ。金融機関は膨らんだ欲望を満たすために、あらゆる手練手管を考える。このような消費と金融のつながりを、彼は『ゆたかな社会』の「集金人の到来」という章で描いている。

2000年代初頭、米国では持ち家を担保にした借金(ホームエクイティローン)が盛んに行われた。住宅バブルで担保価値が増大し、消費者は住宅を担保にして多額の資金を借り入れることができた。低中所得者でも、夢のマイホームかそれとも消費かという選択に悩む必要はなく、サブプライムローンの返済をしながら、ホームエクイティローンで消費に励むことができた。返済が滞ったときには、住宅を売却すればいい。だが必ずはじけるのがバブルだ。住宅価格が暴落すると消費バブルもはじけ、全米に「集金人」が押し寄せた。サブプライムローンも不良債権化し、その余波は全世界に及んだ。

「見えざる手」の神話もガルブレイスの批判にさらされた。権力からの自由、政府からの自由を唱える人たちにとって、市場の存在理由は、権力によらないで資源の最適な配分を達成するところにあった。だが彼によれば、無権力状態であるはずの市場は大企業の権力によって支配されているのだ。

※すべて雑誌掲載当時

(構成=プレジデント編集部)