「しばらくは神保町で指揮を執るの?」
「そうですね。社員も採用したんで、下北沢は任せようと思っています。粕谷がいれば、もう店は一人で回していけますから」
下北沢店は、しばらく粕谷が代理の店長として運営していくという。アルバイトの活用に懸念はない。気になるのは、小さな店で働いた経験がないことだ。粕谷は真面目な性格だが、焼きそばが好きでないとソースのにおいを一日中嗅いでいるのはきついだろう。
しばらく新メニューの開発や企画はいったんストップして、黒田抜きで行列に対応できるように通常フローの整備に注力することにした。アルバイトでも作れる再現性の高さが、まさに試されようとしていた。
「来月いっぱいで、下北沢のマンションも解約しようと思っています」
住宅費も節約したいのだろう。すでにほとんど持ち物は処分したので、洋服などボストンバッグに入る程度の荷物しかない。まさに自分の身一つでの勝負だった。
自信に満ちた黒田の笑顔を見ながら、ぼくはこの3カ月間の動きを思い出していた。出店費用を出してくれるスポンサーを探し、幸運にも何とかメドがついた。候補となる店舗物件を探し、自分の代わりとなる社員を採用する。ものすごいスピードで突き進んでいた。
「チャンスが来たら、やるしかない」
最初の店が赤字だったのに、なぜ2店舗目を出すのか。下北沢という街の市場規模に、限界を感じていたのは事実だ。メディアで取り上げられても平日ランチで数十食しか出ない街より、食べることを目的に外から人が集まってくる街で戦ってみたいという気持ちは止められなかった。
しかし、開業から1年も経たず、まだ赤字の状態で2店舗目を出すというのは、通常のリスク感覚ではありえないだろう。なぜそこまでするのか。
「自分の焼きそばに自信があるっていうのが一番です。好きなんですよ、どうすればおいしい物をたくさんの人に提供できるかって考えるのが」
「不安になったことはないの?」
「正直いって、ヤバいかもって思ったことはありましたよ。でも証券会社に戻るなんて思いつきもしませんでした。いつかは売れると思ってましたから。でもそれがいつになるか、わからないから難しいんです。こんなに早くチャンスが来たら、やるしかないじゃないですか」
勝負するタイミングは今しかない。迷っている余裕も残されていなかった。