冒険家5人の遭難は偶然か

四十三歳になると多くの登山家、冒険家が死ぬので、私はかねてからこれを“四十三歳の落とし穴”と勝手に名づけ、ひそかに注目していた。一見ただの偶然のようにも思えるが、しかし偶然で片づけるにはあまりにも一致しすぎている。彼らが死にいたった状況を個別具体的に検証分析したことは、とくにないのだが、自分自身が四十に近づき、そして四十を越え、問題の四十三歳が近づいてくるにつれ、私はこの年齢が人生においていかなる意味あいをもつのか、切実な問題としてとらえるようになっていた。

四十歳を過ぎたとき、人はそれまでとは異なる人生の新しい局面に足を踏みいれる。おそらく多くの冒険家が四十三歳で遭難するのは決して偶然ではない。うっかり死のふちに迷いこんでしまうだけの理由が、この年齢にはあるのだ。

四十三歳――。

それは、私の考えを述べれば、経験の拡大に肉体が追いつかなくなりはじめる年齢である。

人間誰しもひとつの物事に打ちこみ、経験をつんでいけば、いろいろなことがわかるようになってくる。経験とは何かというと、ひとつには想像力がはたらくようになることだ。

探検のはじまり

私が探検、冒険の世界に踏みだしたのは、大学探検部に入ったのがきっかけだった。学生時代に力を入れていたのは沢登りだったが、当然ながら最初は奥多摩や丹沢など東京近郊の小さな沢しか登れなかった。しかし慣れてゆくとまもなく南アルプスや東北地方のちょっと大きくて難しい沢に入渓するようになり、滝やゴルジュ(せまく切り立った淵。中に滝がかかっていたりして突破困難な場合が多い)でロープを使った登攀をおぼえると、今度は登攀自体をもう少し真面目にやりたいと考えるようになる。そして岩登りやアイスクライミング、冬季登攀と登山の指向も変化していく。

雪山でロープを手にする登山家
写真=iStock.com/AscentXmedia
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登山のグレードが上がり、その時々の個人的な限界を超えると、それまでは限界線のちょっとうえにあった山が、急に経験の内側におさまって限界線のしたにくるようになる。そうなると、この前まで必死に登っていた山もさほど難しいものではなくなり、苦もなく登れたりする。

忘れもしない奥多摩海沢うなざわでのはじめての沢登り。あのとき私は、最後のIII級の滝を登りながらかかとをふるわせ顎をがたがたならし、足下の滝壺に死がとぐろを巻いていることをひしひしと感じたものだ。ところが、つぎの登山で同じ等級の滝に登ってみると、わりと平気になっていて、そのうちIV級、V級とグレードを上げるにしたがい、この前まで死の隣にあったIII級の滝がロープなしでも登れるようになったりする。