置かれた環境から「やりたいこと」につなげる

【田中】そう考えると、私が最初に職業として選んだ金融は、今から考えると、やりたいことではなかったのだと思います。昭和62年に三菱銀行に入行したのですが、当時はバブル真っ只中で、銀行の就職ランキングが高く、先輩も銀行に行っていましたから、自分も銀行に行かなければならないと思っていたところがあります。

今振り返ると、金融が本当にやりたかった仕事なのかどうか定かではありませんでした。それでもやる以上は上り詰めたいと、外資系に移りました。使命感を基にした現在の自分の仕事観とは大きく異なっていたと思います。

渋沢さんと初めてお会いしたのは、独立して数年経った頃でした。当時、何社もの新興系上場不動産会社の戦略アドバイザーをやっていたのですが、リーマンショックが起こり、渋沢さんもご記憶だと思いますが、そういう会社の多くが倒産したのです。あのとき、多くの倒産の真因に非常にショックを受けて、深く考え、現在の世界に移ってきました。

私が1冊目の著書『ミッションの経営学』を出版したのは、その後です。そういう意味では、もしかしたら、やりたいことではないことをやっていたのが私のビジネス生活の最初の10年間で、今はやりたいことしかやっていません(笑)。渋沢さんはどうでしょうか、最初の外資系金融機関の仕事はやりたいことだったのですか?

【渋沢】やりたいことでしたね。ただ、私は最初から金融の仕事に就いていたわけではないのです。父の仕事の関係で、小学校2年生から大学までアメリカで育ち、日本に帰国した時は使えない日本人になっていました(笑)。私の叔父が国際関係のNGOをやっていて働いてみないかと誘ってもらいました。ですから、私のキャリアのスタートはNGOだったのです。

そのNGOは叔父の団体でしたし、終身雇用・年功序列の時代でしたから、ずっとそこに勤めるという選択肢も当然ありました。でも、私自身はそういう考えがなかった。

その後MBAを取得し、86年、87年当時はウォールストリートがMBAを持つ日本人の採用を強化していたため、ノンプロフィットからエクストリームプロフィットの世界にシフトしたわけです。当時の私はアメリカで育った日本人として、日本とアメリカ、日本と世界の架け橋になれればいいなという思いが漠然とありました。最初はそれをNGOでやっていたわけですが、金融の世界でもできると気づき、そちらの道に進みました。

田中道昭教授

渋沢栄一の言葉を発信し始めた理由

【田中】私が初めてお会いした15年ほど前、渋沢さんはすでに『論語と算盤』を語り始めていらっしゃいました。「論語と算盤」経営塾が今年で14期、14年目とのことですが、いつ頃からそういう意識を持たれていたのでしょうか?

【渋沢】明確に覚えているのですが、自分の会社、シブサワ・アンド・カンパニーを立ち上げた40歳の時です。最初はオルタナティブ投資のアドバイザリーのような仕事をしていたのですが、半年後、自分の中で強烈なスイッチが入ったのです。