「効率性・生産性・合理性」を求める時代精神のあらわれ
いまの若い世代に「試行錯誤を楽しむ」「紆余曲折を楽しむ」「長期滞在を楽しむ」という時代に逆行するスタイルを要求することはきわめて難しい。かれらのメンタリティーがそうであるからというより、そのような「ゆっくり楽しむ」意志を持つことを、スマートフォンやそこから接続されるプラットフォームがゆるさないからだ。尻を鞭で叩き、次はこれを楽しめ、あれを楽しめと絶え間なくサジェストし、かれらを次々と消費に導いていく。
効率的であれ、生産的であれ、合理的であれという時代精神とともに生きてきた若者は「無駄を楽しむ」「ゆっくりと楽しむ」「失敗を楽しむ」という営みにしばしば苦痛を感じてしまう。「こんなことをしている場合じゃないのでは?」と焦燥感に駆られてしまう。YouTube、ショート動画、切り抜き動画、ファスト映画、TikTokなどの台頭は、「効率性・生産性・合理性」が人間の価値を測る時代精神の鏡映しである。
演劇や映画や文学が、これからの時代でも淘汰されずにプレゼンスを確立し、人間社会を澪引く役割を担うためには、「効率性・生産性・合理性」だけが人間の価値のすべてではないことを、その表現内容だけでなく、鑑賞行為をも含めて一体となって訴えていく必要があるだろう。
このラットレースには、いずれ揺り戻しが来る
私たちは、本来ならば目まぐるしい日々のなかに挿入する息抜きであるはずの「娯楽を楽しむ」という営為にさえ、多かれ少なかれ向社会的で合理的な処理能力の優秀さを発揮しなければならなくなった。いついかなるときも「優秀」であることを求められている現代人に「別解」を提示できるのが芸術や文学だ。
演劇や芸術のこれからの役割は、YouTubeやTikTokと同じ土俵に上がって可処分時間を奪い合うことではない。「可処分時間を有効活用せねば、社会の正道にいる人間とは認められない」という構造そのものに相対的視座を明確に示し、これに風穴を開けることだ。
1分1秒を惜しむ「娯楽消費」のラットレースは加速している。人びとはこのレースに疲れて、いつか揺り戻しがやってくる。揺り戻しがやってきたときに、受け皿がまったく消滅しているのではどうしようもない。ひとりでも多くの人が「ゆっくりと生きてもよい」と気づくためには、演劇をはじめとする文化や芸術は不可欠になる。