紋切り型の「ゆるキャラ」頼みな地域活性化事業

また、これまでの地域活性化の企画を調べてみたところ、それらは都心近郊の地域活性化策を真似ているだけで、「マラソン大会」や「ゆるキャラ」といった聞き覚えのある企画ばかりだった。陸の孤島となっている過疎地域で話題になるような企画ではなかった。

何一つ独自性もなければ、何一つ生産性もなかった。

そこで、無人島や密林を使った自衛隊監修の「本格サバイバル」や、謎解きや宝探しといった仮想世界の冒険を模した「リアルロールプレイング」などのイベントを提案した。それらは不便や不安の中で生まれる喜びをテーマとしており、都心近郊のお気楽なイベントと差別化を図った。

弾は撃ってみなければ当たらないし、バットも振ってみないと当たらない。たくさんのアイデアをラインナップすることで、面白いことをやっている地域として話題になりやすくなる。しかし、それらの企画書は「うん、面白いね」の言葉だけでまったく話が進まなかった。どうして進まなかったのか。過疎地域において独自性や生産性は不要だったからである。

地域活性化は本当に必要なのか

中央政府の政策はすべてにおいて地域活性化を前提としている。2014年9月、第二次改造内閣を発足した安倍元首相は、記者会見の席でローカル・アベノミクスとして地方創生を発表した。現在の岸田内閣は、デジタル田園都市国家構想を政策の目玉の一つにしている。

中央政府のこうした政策を受けて、巷には「地域活性化をするにはどうするべきか」といった書籍が並ぶ。まずは、地域活性化というお題目があり、その道筋を考えるといったものだ。

私は、それは違うと思う。

中央政府が地域活性化というお題目を掲げることで、「今回は私の地域で、次はあなたの地域ね」といった補助金の持ちまわりができる。「あれはしてもいいけど、これをしてはいけないよ」といった規制がかかる。おのずとしがらみが生まれて「余計なことはするな」といった話になる。地域から多様性が失われて、横並びの画一的な活性化策が並ぶ。そして、やりたいことができなくなる。

私は思う。

地域の活性化を目指すのではなく、個人の活性化を目指すべきではないか。それぞれがやりたいことができる社会の実現。それが結果的に地域活性化につながる、というのが本来の姿ではないか。中央政府は今すぐにでも地域活性化のお題目を掲げるのを辞めて、地域にあるしがらみを取り除くべきではないか。

花房尚作『田舎はいやらしい』(光文社新書)
花房尚作『田舎はいやらしい』(光文社新書)

地域活性化という言葉はかなり前から叫ばれているが、それは地方で暮らしている人たちが心から望んでいるものなのか。誰もが「地域活性化は正しい」と叫ぶから、地域の人びとは仕方なく、やっているふりをしているのではないか。

過疎地域と都心のどちらが魅力的かを競うのは意味がない。

たしかに都心は文化的で上品かもしれない。

一方で過疎地域は窮屈で不自由かもしれない。だが、その窮屈で不自由な生活がそれほど悪いだろうか。悪いなら過疎地域で暮らす者は不幸を嘆いているだろう。しかし現実は違う。

なぜなら、幸せや不幸というのは、地域の行動様式とは違うところに存在しているからだ。それぞれの行動様式を認めて、尊重することでしか、私たちは対応できないのである。

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