地方の自治体の活性化策はどこも似たようなものばかりだ。なぜそうなってしまうのか。まちづくりに詳しい花房尚作さんは「過疎地域の人々は、地方特有の複雑な人間関係から来る利権に配慮している。これでは斬新な地域活性化対策など生まれようがない」という――。

※本稿は、花房尚作『田舎はいやらしい』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

マラソン
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「ヨソ者、バカ者、ワカ者」を活用しない田舎の事情

過疎地域の息苦しさを打開する手段として、しがらみに左右されない「ヨソ者、バカ者、ワカ者」の活用がある。

ヨソ者は客観的な見方ができる、バカ者は閉塞感を破る原動力になる、ワカ者は活力に溢れている、というわけである。たしかにその通りだろう。活力に溢れているワカ者は過疎地域を去るので仕方ないとしても、ヨソ者やバカ者はいくらでも呼び込んで活用できる。それを雇える予算は地方自治体にいくらでもある。それにもかかわらず、ほとんどの地方自治体はヨソ者やバカ者を活用していなかった。

なぜなら、為政者にとってヨソ者やバカ者の活用は大きなリスクがあるからだ。過疎地域は有権者との距離がとても近く、地元企業と癒着しなければ選挙に勝てない。しがらみに左右されないヨソ者やバカ者の活用は、過疎地域の既得権益を脅かす可能性があった。

生産性の低い過疎地域では、補助金の配分で勝ち組と負け組が決まる側面があり、お互いにネガティブキャンペーンを繰り広げて、いかにして相手側を叩き潰すかに焦点が置かれる。そのような過疎地域において、ヨソ者やバカ者の行動はネガティブキャンペーンの格好の標的になる。

「何とかならなくても補助金がある」

また、過疎地域の人たちは住み慣れた地元をよく知っている反面、その他の地域をまったく知らなかった。地元と他の地域を比べることができないため、ヨソ者やバカ者の提案がピンとこないのである。ピンとこないものはやりたくないし、やらなくても補助金でなんとかなる。

そもそも、過疎地域の人びとに何かを変えようとする意識がなかった。そのような過疎地域で、ヨソから来た者がいくら頑張っても空回りに終わる。そうこうしているうちに「ヨソ者なんかに何が分かる」とか、「バカ者は道徳に反している」といった反発が起こる。そして、ヨソ者やバカ者は失望して過疎地域を去るのである。それを知った過疎地域の人びとも同じく失望する、といった具合だった。

そのような事例がたくさんあるため、「ヨソ者、バカ者、ワカ者」の活用は、使う前から使うことを諦めている、というのが現実だった。