談志を訴えたら勝てただろうか

自分も前座時代は、師匠の南大泉の自宅から当時の下宿まで歩いて20分の道のりを毎日泣いて帰る日々でした。

入門当初などは師匠が好き過ぎるあまり直接指示されても困惑し、テンパってしまい、怒鳴られるという「負の連鎖」に陥っていました。お茶をいれれば「こんな馬のションベンみたいなお茶飲めるか!」と怒鳴られ、手間取っていると「もたもたするな!」、何か言おうとすれば「お前の言い訳なんざ聞いていない!」。そして、「痩せるほど気を遣え!」「ばかたれが」と続きます。パワハラで訴えれば勝訴していたかもしれません。

日本茶をゆっくりと心がそろえて淹れます
写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
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というのは冗談で、自分はパワハラとはまったく思っていませんでした。つらくてもそれを上回る芸への魅力があったからこそ、やめようとも考えませんでした。

「惚れた弱み」なのでしょうか。「厳しいこといわれても、あんな落語家のそばにいられるのだし、自分がその片鱗さえ受け継げれば」という思いでしょうか。自分の場合はサラリーマンを辞めての入門でしたので、ここから逃げるわけにはいかなかったのかもしれません。

いま振り返って思うのです。

やはり前座修業という過酷な厳しさを経ないとプロにはなれなかったと。プロとはプロセスなのではないでしょうか。だから私はプロを自称する人たちが苦手なのです。私自身、あの時の涙が慈雨となった果実がいま大きく育っています。本となり、小説となり、そしてシナリオまで完成しました。泣いた過去は裏切りませんでした。

自分への悪口を許容してくれた談志

談志に毎日怒鳴られ続けられる日々でしたが、落ち込む自分に優しい言葉もかけてくれました。

「お前に対する小言は、あくまでもお前の言動に対する小言であって、決してお前の人格否定ではないからな」。

先ほど挙げたあのきついトーンのフレーズは自分の「しくじり」に向けられたものだったのです。実際、問題となった言動に注意を払い、次から改善させると、その小言が避けられたことをいまさらながら顧みています。世にいうパワハラ上司に圧倒的に欠けているのはこのあたりの差配ではないでしょうか。さすがは「言葉の達人」であります。

また、談志はよく「俺の悪口言っていれば2時間は持つだろ」と言っていました(実際は2時間どころではなく、2晩以上語り尽くせるほどでしたが)。

当人は「自分のいないところで弟子たちは悪口というかネタにしている」ということはデフォルトとして受け止めていたのです。企業のパワハラ上司にそんなことをしようものなら、ますますのパワハラが待っていることになるはずです。いや、私が芸人であるということを差っ引いても、社員同士がパワハラ上司の悪口を言い合って楽しんでいるという光景などは全く想像できません。

根底に人格の尊重や信頼関係が存在しているかということが、「パワハラかパワハラでないか」の違いではないかということが浮かび上がってくるような気がします。