「1枚で曲面のフロントガラス」を初めて開発

もうひとつ、中村が固執したのがフロントに曲面のカーブガラスを使うことだった。それまでの車は平面のガラスを継ぎ合わせた2枚ガラスだったが、サプライヤー(協力企業)のあさひ硝子ガラスに無理を言って、曲面のガラスを開発してもらったのである。フロントが曲面ガラスになったので、前方が見やすくなったし、また室内が広く感じられるようになった。新車の大きなセールスポイントとなったのである。

開発中、中村はスタッフの話に耳を貸したが、「日本で初めて」「世界でも初めて」という技術を取り入れる時だけは自分の意見を通した。

乗用車を作っていたのはトヨタだけではない。日産、いすゞ、三菱もやっていた。世界を見ればビッグ3をはじめとするアメリカ勢、そして、ヨーロッパの自動車会社……。モデルチェンジが当たり前の自動車業界では新車に何らかの新しい試みがなければたちまち陳腐化してしまうのである。

日本の小さな会社が真似まねばかりしていたら、世界との競争力を獲得できない。特需でもうけたとはいえ、開発資金はビッグ3に比べたらすずめの涙だったし、人材だって寄せ集めだ。

それでも、中村たちは創意くふうとチームワークで新車、クラウンを作り上げた。

黒塗りの高級車のドアを開こうとしている男性の手元
写真=iStock.com/LanaStock
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海外の後継モデルより性能で上回っていた

1955年、トヨタはクラウンを発売した。前輪独立懸架の他、後輪は3枚板バネ懸架方式を採用。前輪と相まって悪路での乗り心地のよさを達成した。

操作ではダブルクラッチを踏まなくても変速できるシンクロメッシュ付きの常時かみ合い式トランスミッションを採用。運転しながらのクラッチ操作がぐっと楽になった。

なんといっても特徴は「観音開き」と呼ばれたドアの採用だ。観音像を納めた厨子ずしの扉が両開きになっていることから付けられた名前だが、タクシー会社は「乗客が乗り降りしやすい」と歓迎した。業務用を意識したドア設計だったのである。

このように中村たち開発グループは市場調査をした結果を踏まえ、さらに世界でも最先端の技術を組み込んでクラウンを作った。

当時、日本でノックダウン生産されていた海外メーカーの車はいずれも設計が古いものばかりだった。日産のオースチンA40は本国では1947年に発売された型の後継モデルだし、日野のルノーは1946年に発表されたものだ。日本人は「外国製品は上等」と思っていたけれど、新車のクラウンはヨーロッパの車と比べても遜色そんしょくがないどころか、性能では上回っていた。