戦後、トラック販売が好調だったトヨタ自動車は金融政策「ドッジ・ライン」で原料が急上昇し、一転して倒産危機に陥った。銀行から融資を断られ続けた当時の社長・豊田喜一郎氏がとった行動とは――。

※本稿は、野地秩嘉『トヨタ物語』(新潮文庫)の一部を再編集したものです。

ヴィンテージ車
写真=iStock.com/Light Capturing
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在庫を抱えないトヨタで在庫がどんどん増え出し…

1949年、ドッジ・ラインが始まった年は自動車産業にとって、まったくの厄年だった。まず、ドッジ不況でトラックが売れなくなった。

地方の役所、運輸業、中小企業といったトラックの顧客層が不況で契約を取り消し、とたんに在庫が増えてしまった。トヨタは7月から8月にかけての在庫が400台を超えた。8月には石炭の配給統制が撤廃、9月には製鉄用の原料炭に支給されていた補助金がドッジ・ラインにより廃止された。そのため石炭と鉄の価格が上がった。ちなみに鉄鋼の統制価格は32~37パーセントも値上げされている。

「原料が上がったのなら自動車も価格を上げればいい」

当たり前の理屈なのだが、自動車だけは翌50年の4月まで従来通りの価格で売らなくてはならなかった。不思議なことに自動車だけは統制価格が温存されたのである。

炭鉱、鉄鋼業という老舗しにせの業界にはGHQや政府を動かす力があった。しかし、その頃の自動車業界はベンチャーである。必死になって政府に働きかけたが、思うような返事は来なかった。もっとも、この時に値上げしたら、車はもっと売れなくなっていたかもしれない。

当時の社長、豊田喜一郎は現場に出るのをやめ、幹部と一緒に販売に精を出し、売掛金の回収に走った。また、資材が上がった分を原価を低減して節約しようと図った。それでも鉄鋼は4割近くも上がっているのだから、いくら節約しても限度がある。毎月2200万円もの赤字が続くことになってしまった。

日産、いすゞが1000人規模のリストラに踏み切るも…

当時の公務員初任給は4863円(48年)。2200万円の赤字垂れ流しはトヨタの体力を徐々に奪っていく。それでもなんとか続いていたのは本家の豊田自動織機が「糸へん景気」という綿業の好況で大儲おおもうけしていたからだった。

だが、戦前、トヨタと並んで自動車御三家と呼ばれた日産、いすゞにはそれほどの体力はない。まず、音を上げたのは、この2社だった。

当時、3社のシェアはトヨタが42.5パーセント、日産38.2パーセント、いすゞが15.4パーセントである。3社がトラック市場を独占していたのだが、どこも内情は苦しいものだった。日産、いすゞはトヨタにおける豊田自動織機のように儲かっている関連会社を持っていたわけではない。赤字構造を断ち切るためには人員を整理してコストカットするしか道はなかった。

そこで、いすゞは10月に1271人の人員整理を発表する。従業員5341人の約24パーセントという規模だ。続いて日産が1826人の人員整理、加えて賃金カットを決めた。これもまた日産の従業員8671人の約21パーセントである。日産はいすゞの会社側提案を参考にしたと思われる。