ただし、どちらの会社も労働組合は「ああそうですか」と人員整理を受け入れたわけではない。なんといっても敗戦から5年間は労働運動が高揚していた時期であり、各地で先鋭化した労働組合が大きな争議を起こしていた。話し合いで解決するよりも、ストライキ、職場放棄、職場のロックアウトという手段に走ったのである。

アメリカ軍の装甲車、戦車、戦闘機まで出動

いくつかあった大きな労働争議のなかで全国民の注目の的となったのが映画会社東宝きぬた撮影所のそれだった。

会社側に対抗するため撮影所の組合員は砧撮影所に立てこもり、バリケードを設置し、技術と美術スタッフは協力して電流を流した電線、大型扇風機を持ち出して籠城ろうじょうした。砧撮影所は戦国時代の城郭のように武装されたのであった。撮影所のストライキには映画監督、人気俳優、女優といった著名人も参加したこともあって、マスコミ、一般人は事態の推移に目を凝らしたのである。

いよいよ組合員を排除するという日、やってきたのは警察だけではなかった。アメリカ軍までが出動してきたのである。しかも、アメリカ軍は装甲車、戦車、3機の戦闘機まで持ち出した。

「やってこなかったのは軍艦だけ」と言われた大争議だった。

この頃、ストや職場放棄が頻発したのは労働運動に慣れているリーダーたちが全国の大きな争議に指導に出かけ、デモ、闘争のノーハウを伝授したためである。また、中国本土では国共内戦が始まり、共産党優位が伝えられ、日本国内にも影響が及んだ。左翼勢力が力を持っていた時代だったのである。

話は戻る。

いすゞ、日産の労働組合は人員整理に対して抗議のため職場を放棄し、ストライキを打った。2カ月にもなる長いストライキだったが、結局、会社側、組合側ともに倒産を避けるために条件闘争に移り、争議は終わる。この時、2社の経営者は辞任していない。

日産、いすゞが労働争議を起こしていた頃、トヨタでも職場集会が開かれるようになり、挙母ころも工場(現豊田市)のなかにも赤旗が立つようになった。トヨタにも争議の余波が及んだのだった。