「お願いをした以上、責任は私が持ちます」
彼は自分でリスクを取って名古屋に支店を持つ金融機関を集めた。そこに喜一郎も呼んでおいた。
「みなさん、日銀は民間の金融機関に命令することはできません。今日は集まってもらって、話を聞いていただくだけです」
前置きをして、「名古屋の経済のために、いま、みなさんができることをやってほしい」と話した。
それにとどまらず高梨は喜一郎や出席者の前で「お願いをします。そして、お願いをした以上、責任は私が持ちます」と言い、頭を下げた。横では喜一郎も一緒に頭を下げる。
大阪銀行の担当者が手を上げて質問をした。
「高梨さん、責任を持つとはトヨタが返せなかったら、日銀が保証してくれるという意味なのか?」
高梨は応じた。
「大阪銀行さん、私は融資のお願いはしていません。みなさんができることをやってくださいとお願いしただけです」
言外の意味を察しろというわけだ。だが、大阪銀行の担当者は返事をせず、その場から引き揚げていった。
残った銀行団は高梨の意を体して、トヨタへの融資を話し合った。結局、帝国銀行(のちの三井銀行。現・三井住友銀行)と東海銀行(現・三菱UFJ銀行)を幹事とした24の銀行が協調融資を決めた。
“ベンチャー“のトヨタを信用していなかった
この時、喜一郎は融資団にトヨタ労働組合と交わした覚書を示している。
「原価低減を目的とする合理化を推進する。人員整理は行わない。賃金の1割は引き下げる」
喜一郎はあくまでこの約束を守り通せると考えたのだろうが、融資団は日産、いすゞが人員整理で危機を乗り切ったことを知っている。その場では何も言わなかったが、トヨタの状況を眺めて、経営状況が好転しなかったら、次は人員整理をするしかないと判断していた。
ともあれ、喜一郎は最悪の事態を脱することができた。
この時、席を立った大阪銀行と日本興業銀行は融資団に入らなかった。そのため、大阪銀行すなわち住友銀行は長いあいだ、トヨタと取引することができなかった。
日銀支店長から示唆され、しかも、他行が揃って融資しているのに、融資団に入らなかった大阪銀行の幹部はベンチャーである自動車会社の価値を認めていなかったのだろう。
住友は三井三菱と並ぶ歴史のある財閥だ。確固たる企業文化が確立されており、住友の審査基準ではトヨタというベンチャーを信用しなかった。だから他行が融資しても「うちも参加します」とは言わなかった。トヨタが大きな会社になったから悪役にはなったけれど、住友銀行はそれなりに、はっきりとしたポリシーを持っていたわけだ。
こうして1949年の倒産危機は乗り切ることができた。だが、本当の危機は翌年、1950年だったのである。(『トヨタ物語』につづく)