トヨタ自動車が1955年に発売した初代クラウンは、発売当初は認知に苦しんで売れなかったが、その突出した性能からしばらくすると日本一のクルマになった。開発者たちはいったいどんな工夫を凝らしたのか。『トヨタ物語』(新潮文庫)を出したノンフィクション作家の野地秩嘉さんが解説する――。

※本稿は、野地秩嘉『トヨタ物語』(新潮文庫)の一部を再編集したものです。

クラウンのデラックス版として発売されたRSD型
クラウンのデラックス版として発売されたRSD型(写真=Tokumeigakarinoaoshima/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

「日本人の頭と腕で大衆車を作る」トヨタの夢

豊田自動織機時代から豊田喜一郎の夢は日本人の頭と腕で本格的な大衆車を作ることだった。しかし、結局、生きている間に夢はかなわず、志を受け継いだのは副社長となり技術部門を統括していたいとこの英二である。

英二は本格的な国産乗用車を開発するために設計部だけではなく、生産技術部からも技術者を呼び、横断的な開発集団を作った。トップに開発主査という新しい名称をつけ、清新な気持ちを技術者集団に与えた。初代の開発主査になったのは中途入社のエンジニア、中村健也である。

中村は兵庫県西宮市の出身。長岡高等工業学校電気工学科(現・新潟大学工学部)を出て、クライスラーの車を組み立てていた共立自動車製作所に入った。組み立てだけではつまらない、国産自動車の開発をしてみたいと思い、中村は4年で同社をやめた。失業中、自動車雑誌に載っていた喜一郎の投稿記事を読む。

「この人の下で働きたい」と直感し、トヨタを訪ねた。運のいいことに、トヨタは挙母工場(現豊田市)の完成直前で、技術者を探していた。喜一郎の面接を受けた中村は無事、入社し、車体工場で溶接機の担当となる。

どしゃ降りでも絶対に傘をささなかった男

その後、中村は住友機械工業(現・住友重機械工業)と協力して挙母工場で使うための2000トンプレス機の開発に着手した。戦争で一時中断したけれど、戦後の1951年にはこれを完成させている。当時、日本最大の鋼板用プレス機で寿命は長く、現在もタイにある協力会社でトヨタ車のフレームを打ち出している。

ポートレートを見ると、中村の風貌ふうぼうは映画『王様と私』で知られるロシア生まれの俳優、ユル・ブリンナーにそっくりだ。目鼻立ちがくっきりとした男で、頭はスキンヘッド。いかにも鼻っ柱の強そうな顔をしている。事実、そうだったようで、さまざまなエピソードが残っている。

背広やネクタイとは無縁だったが、服装にだらしがないわけではなかった。現場でも事務所でもカーキ色のナッパ服に、パリッとした真っ白のワイシャツを着る。それが中村流のおしゃれだった。合理的というのか、変人なのか、かなりの雨が降っても絶対に傘をささなかったことで知られていた。どしゃ降りのなかでも、両手を身体からだの側面にピタリとつけてどんどん歩いていく。