※本稿は、野地秩嘉『トヨタ物語』(新潮文庫)の一部を再編集したものです。
トラックを「とにかく作れ、作りまくれ」
トヨタの創業者、豊田喜一郎が世を去った1952年、前年に結ばれた連合国による「日本国との平和条約」、通称サンフランシスコ講和条約が発効した。
当時、トヨタのような日本の民間企業はどうなっていたかといえば、いずれも業績は伸びていた。復興は一段落し、インフラは整ってきた。
敗戦後のベビーブームに生まれた子どもたちは幼児から児童になり、消費者の仲間入りをし始める。子どもたちが大きくなっていくにつれ、巨大な需要が生まれ、それが好景気の継続につながっていった。1954年から始まった神武景気、続く岩戸景気から高度成長に移っていったのは国内の人口増大、消費者の増加が続いたからだ。
その頃、トヨタ製トラックは飛ぶように売れていた。社長の石田退三は「朝鮮戦争の特需が終わってからも車は必ず売れる。わしはこの機会に儲ける」と胸を叩き、現場に「とにかく作れ、作りまくれ」とハッパをかけた。そうして、遮二無二、車を売って金を貯め、無配だった会社を配当を出す企業に変えたのだった。
部品を必要以上に作らない「スーパーマーケット方式」
1953年、機械工場の工場長(主任)を務めていた大野耐一は、機械工場と組み付け工場の間に、あるシステムを採り入れた。
当初は「スーパーマーケット方式」と大野が呼んだもので、後の工程の人間が前の工程に完成した部品を取りに来るシステムをいう。これまでは後の工程のことなど考えずに、材料があれば、ある分だけ部品にして、次の工程へ送り込んでいたのを後の工程の人間が主体的に引き取りにくるように変えたものだ。
実際に現場でやってみると、これが意外にスムーズに運んだのである。
生産目標が増えたわけではない。コンベアのスピードを上げたわけでもない。目に見えて変わったのはライン横に積んでいた部品がなくなったことだ。
これまで遮二無二、仕事をしていたのが、後の工程のことを考えて、必要な量だけ作るようになった。つまり自分自身で仕事をコントロールするわけである。作業者の視野が広くなった証拠だ。
もっと言えば、考えながら仕事をするようになったのである。ただし、それでも手元に部品がないのが不安で、足元に部品を隠す連中はいた。すると、今度は大野が現場を回って、部品を隠していた作業者を叱ったのである。
結局、後工程の人が前工程へ引き取りに行くことは時間はかかったが実現する。しかし、スーパーマーケット方式という名前は消えてしまった。
1カ月が経った。現場がスムーズに流れ出してから、大野はふたたび工長、組長を集めた。